恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
翌朝、好波は息苦しさで目を覚ました。
喉がいがらっぽく、額が汗ばんでいる。
布団の隙間から入りこむ空気に、ぞくぞくと悪寒が走った。
ーーこれは、マズい。
息を吸うと、乾いた喉が引き攣って咳に変わった。情けなさに泣きそうになる。
昨日までは大丈夫だったのに。
雨の中、アンケートを拾い回ったのがよくなかったのか。
そもそも、ハードワークが祟ったのか。
分からないが、この調子ではせっかくの休みも寝てるしかなさそうだ。
……薬とか……あったかな……。
ぼうっとした頭で考えるが、まったく思い出せない。かといって、薬を保管している台所まで行く気力もなかった。
何か飲みたいと思っても、寝返りを打つのですら身体が痛む。もう少し休んでからにしよう、と目をつぶる。
今日の飲み会、行けないな……的場さんに連絡しなくちゃ……那岐山さんにも……謝ってもらって……土曜のイベントまでには治さないと……いや、明日も準備があるから休めない……
断片的に浮かぶのは、仕事のことばかりだ。
そう気づいて、思わず苦笑する。
こういうのを、寂しい人生、と人は言うんだろうか。好波の両親も、実家に帰れば、「あんたいつまでも独身貴族気取ってないで、はやく孫の顔見せなさいよ」と呆れるのが定番になっている。
好波としては、恋愛も結婚もあえて避けているわけではないの。が、「婚活」という言葉すら主流になっている昨今、「避けない」という消極的な態度で得られる縁などないらしい。
特に、好波のように仕事に邁進していれば、そんな余裕もないというものだ。
子どもが欲しいかと言われれば、いてもいなくてもいい、と思う。ただ、一つだけ、好波の胸に刺さっている父の言葉があった。
父は一度、町内の写真コンテストで優秀賞をもらったことがある。
そのときの一枚は好波と母が波打際に立っている写真で、賞状を嬉しそうに見ながら、父が言った一言だ。
ーー好波に子どもができたら、ここにもう一人写して、また優秀賞を取りたいな。
不意に笑いがこみあげて、同時に目にはじわりと涙が浮かんだ。温もりと切なさが胸につまったのだ。、
こんなことで泣けるだなんて、身体と、精神的な疲れで、すっかり参っているらしい。
そう自己分析しながら目を閉じると、まぶたの裏には父が撮ったその写真が思い出された。
的場と電話しているときに聞こえた海の音と共にーー
知らない間に眠りについた好波は、夢を見ていた。
サーフィン用のぴったりしたスーツを身に纏った的場に、まだ走り方もたどたどしい少女が駆け寄っていく。
小さな手が、精一杯伸ばされて、的場の足にすがりついた。
的場の腕は軽々と子どもを抱き上げ、ぐるりと勢いよく回す。
子どもはきゃきゃっ、と高い笑い声をあげた。
気をつけてよ、落とさないでね。
好波が言う。
落とすわけないだろ。
的場が笑う。
大切な娘なんだから。
そして少女を片手に抱き、好波の方へ手を伸ばす。
好波は笑いながら、その腕の中へ一歩踏み出しーー
そこで、はっと目を覚ました。
頬が涙で濡れていた。驚くほど温かい夢の名残に戸惑う。
同時に、一気に込み上げた恥ずかしさに手で顔を覆った。
「……馬っ鹿、みたい」
なに、今の夢。
夢が胸に残していった温もりと、現実のギャップに混乱する。自覚するや、ドキドキと急に心臓が暴れ始めた。
「恥っず……かし……」
顔が真っ赤になっているのは、熱のせいか羞恥のせいか。
ただの夢だと片付けるには、あまりに生々しい感情の夢だった。
最後のシーンが頭を巡る。的場が伸ばした手に自分から近づきーーあのまま、抱き寄せられてキスをしたのだろうか。少なくとも、夢の中の自分はそう期待していた。
口先では、恋愛なんて、結婚なんてと言いながら、自分にそんな願望があったのだろうか。
しかも、よりによってあの的場と。
でも、それが驚くほど自然に感じられたのは、あれがただの夢だからだろう。それ以上でもそれ以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、痛む身体をぐいと起こした。
ふらつく足取りで台所へ行き、コップ一杯の水を入れてちびちびと飲んだ。薬が置いてある棚を簡単に探してみたが、やはり頭痛薬以外はなさそうだ。
諦めてベッドへ戻ろうとし、放り投げるように床に置かれたかばんに気づく。
痛む頭を押さえながらかばんを拾い上げると、中でちかちかと着信を告げるライトが光っていた。
誰かメッセージでもくれたんだろうか。
それとも電話かーー
思いながらスマホを取り出し、ロックを外す。
そこには的場の電話の着信が数件と、【こっちは無事終了した。そっちは大丈夫だったか?】という簡単なメッセージが入っていた。
好波はベッドに腰掛けて、ほぅ、と息を吐き出す。
状況報告。状況報告。
動かない頭で呪文のように唱えながら、昨日のイベントの様子を思い出す。
【連絡できずすみません。大きなハプニングはありませんでした】
ぼやける視界でどうにかそう送ってから、あまりに味気ないかと一文つけたした。
【的場さんも、お疲れさまでした】
あとで、お礼をしなくちゃ。
毎日、気にかけてくれてたんだし。
百貨店の方の様子も、知らせてくれてたしーー
思いはしたが、身体のだるさに勝てず、好波はまたベッドに沈み込んだ。
***
一日中まどろんでいた好波は、枕元に置いたスマホの着信音で目を覚ました。
『ーーああ、岩瀬か? 今どうしてる? 打ち上げの前に、少し会えるかと思ってーー』
的場の声が聞こえて、少しほっとした自分に気づく。もぞりと布団の中で寝返りを打つと、言葉を口にしようと息を吸ったが、出てきたのは咳だった。
『お、おい。大丈夫か?』
「だ、い、じょぶ、です……」
言いながら、これは駄目そうだと自分で苦笑する。声はがさついていてハリがないどころではなかった。
的場が電話の向こうで絶句したかと思えば、どこかうろたえた様子で『今家か?』と聞いてくる。
好波は咳の合間で「はい」と答えた。
『横になってるのか? メシは?』
「牛乳……飲みました」
『食ってねぇのか。なんか食べられそうなもんあるか?』
的場のいる方で、何か人の気配がした。今日はイベントはないはずだから、オフィスにいるのだろうか。それなら、近くにいるのは宇津木か、小山内か。
やりとりは聞こえないが、的場がバタバタと身支度するのは布擦れの音で分かった。
『今からそっち行くから。ゼリー系ならいけるか?』
「でも……打ち上げが」
『まだ時間あるだろ』
言われて、好波は部屋の中に時計を探した。が、いつも寝室ではスマホを時計代わりにしていることを思い出して困惑する。
「……今、何時ですか?」
『5時だ。なんか欲しいもんあったら連絡しろ。那岐山さんには俺から欠席の連絡入れとく』
「でも……」
『黙って言うこと聞け。上司命令だ』
的場は叱り付けるように言って、電話を切った。好波はスマホを握った手を、ぱたりと枕元に置いて息をつく。
話しているだけでも、疲れた。
もう、5時か。そういえばカーテンの外が夕暮れどきのそれに変わっている。日中に一度、トイレに起きたとき、冷蔵庫にあった牛乳を口にした以外何も飲み食いしていないが、空腹よりも身体のだるさがつらい。
熱の出始めのような身体の痛みはなくなったが、とにかく頭がぼんやりしていた。
「……欲しいもの……れんらく……」
的場が言っていたことを復唱するが、スマホを持ち上げる気にもならず、またそのまま夢うつつをさ迷った。
喉がいがらっぽく、額が汗ばんでいる。
布団の隙間から入りこむ空気に、ぞくぞくと悪寒が走った。
ーーこれは、マズい。
息を吸うと、乾いた喉が引き攣って咳に変わった。情けなさに泣きそうになる。
昨日までは大丈夫だったのに。
雨の中、アンケートを拾い回ったのがよくなかったのか。
そもそも、ハードワークが祟ったのか。
分からないが、この調子ではせっかくの休みも寝てるしかなさそうだ。
……薬とか……あったかな……。
ぼうっとした頭で考えるが、まったく思い出せない。かといって、薬を保管している台所まで行く気力もなかった。
何か飲みたいと思っても、寝返りを打つのですら身体が痛む。もう少し休んでからにしよう、と目をつぶる。
今日の飲み会、行けないな……的場さんに連絡しなくちゃ……那岐山さんにも……謝ってもらって……土曜のイベントまでには治さないと……いや、明日も準備があるから休めない……
断片的に浮かぶのは、仕事のことばかりだ。
そう気づいて、思わず苦笑する。
こういうのを、寂しい人生、と人は言うんだろうか。好波の両親も、実家に帰れば、「あんたいつまでも独身貴族気取ってないで、はやく孫の顔見せなさいよ」と呆れるのが定番になっている。
好波としては、恋愛も結婚もあえて避けているわけではないの。が、「婚活」という言葉すら主流になっている昨今、「避けない」という消極的な態度で得られる縁などないらしい。
特に、好波のように仕事に邁進していれば、そんな余裕もないというものだ。
子どもが欲しいかと言われれば、いてもいなくてもいい、と思う。ただ、一つだけ、好波の胸に刺さっている父の言葉があった。
父は一度、町内の写真コンテストで優秀賞をもらったことがある。
そのときの一枚は好波と母が波打際に立っている写真で、賞状を嬉しそうに見ながら、父が言った一言だ。
ーー好波に子どもができたら、ここにもう一人写して、また優秀賞を取りたいな。
不意に笑いがこみあげて、同時に目にはじわりと涙が浮かんだ。温もりと切なさが胸につまったのだ。、
こんなことで泣けるだなんて、身体と、精神的な疲れで、すっかり参っているらしい。
そう自己分析しながら目を閉じると、まぶたの裏には父が撮ったその写真が思い出された。
的場と電話しているときに聞こえた海の音と共にーー
知らない間に眠りについた好波は、夢を見ていた。
サーフィン用のぴったりしたスーツを身に纏った的場に、まだ走り方もたどたどしい少女が駆け寄っていく。
小さな手が、精一杯伸ばされて、的場の足にすがりついた。
的場の腕は軽々と子どもを抱き上げ、ぐるりと勢いよく回す。
子どもはきゃきゃっ、と高い笑い声をあげた。
気をつけてよ、落とさないでね。
好波が言う。
落とすわけないだろ。
的場が笑う。
大切な娘なんだから。
そして少女を片手に抱き、好波の方へ手を伸ばす。
好波は笑いながら、その腕の中へ一歩踏み出しーー
そこで、はっと目を覚ました。
頬が涙で濡れていた。驚くほど温かい夢の名残に戸惑う。
同時に、一気に込み上げた恥ずかしさに手で顔を覆った。
「……馬っ鹿、みたい」
なに、今の夢。
夢が胸に残していった温もりと、現実のギャップに混乱する。自覚するや、ドキドキと急に心臓が暴れ始めた。
「恥っず……かし……」
顔が真っ赤になっているのは、熱のせいか羞恥のせいか。
ただの夢だと片付けるには、あまりに生々しい感情の夢だった。
最後のシーンが頭を巡る。的場が伸ばした手に自分から近づきーーあのまま、抱き寄せられてキスをしたのだろうか。少なくとも、夢の中の自分はそう期待していた。
口先では、恋愛なんて、結婚なんてと言いながら、自分にそんな願望があったのだろうか。
しかも、よりによってあの的場と。
でも、それが驚くほど自然に感じられたのは、あれがただの夢だからだろう。それ以上でもそれ以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、痛む身体をぐいと起こした。
ふらつく足取りで台所へ行き、コップ一杯の水を入れてちびちびと飲んだ。薬が置いてある棚を簡単に探してみたが、やはり頭痛薬以外はなさそうだ。
諦めてベッドへ戻ろうとし、放り投げるように床に置かれたかばんに気づく。
痛む頭を押さえながらかばんを拾い上げると、中でちかちかと着信を告げるライトが光っていた。
誰かメッセージでもくれたんだろうか。
それとも電話かーー
思いながらスマホを取り出し、ロックを外す。
そこには的場の電話の着信が数件と、【こっちは無事終了した。そっちは大丈夫だったか?】という簡単なメッセージが入っていた。
好波はベッドに腰掛けて、ほぅ、と息を吐き出す。
状況報告。状況報告。
動かない頭で呪文のように唱えながら、昨日のイベントの様子を思い出す。
【連絡できずすみません。大きなハプニングはありませんでした】
ぼやける視界でどうにかそう送ってから、あまりに味気ないかと一文つけたした。
【的場さんも、お疲れさまでした】
あとで、お礼をしなくちゃ。
毎日、気にかけてくれてたんだし。
百貨店の方の様子も、知らせてくれてたしーー
思いはしたが、身体のだるさに勝てず、好波はまたベッドに沈み込んだ。
***
一日中まどろんでいた好波は、枕元に置いたスマホの着信音で目を覚ました。
『ーーああ、岩瀬か? 今どうしてる? 打ち上げの前に、少し会えるかと思ってーー』
的場の声が聞こえて、少しほっとした自分に気づく。もぞりと布団の中で寝返りを打つと、言葉を口にしようと息を吸ったが、出てきたのは咳だった。
『お、おい。大丈夫か?』
「だ、い、じょぶ、です……」
言いながら、これは駄目そうだと自分で苦笑する。声はがさついていてハリがないどころではなかった。
的場が電話の向こうで絶句したかと思えば、どこかうろたえた様子で『今家か?』と聞いてくる。
好波は咳の合間で「はい」と答えた。
『横になってるのか? メシは?』
「牛乳……飲みました」
『食ってねぇのか。なんか食べられそうなもんあるか?』
的場のいる方で、何か人の気配がした。今日はイベントはないはずだから、オフィスにいるのだろうか。それなら、近くにいるのは宇津木か、小山内か。
やりとりは聞こえないが、的場がバタバタと身支度するのは布擦れの音で分かった。
『今からそっち行くから。ゼリー系ならいけるか?』
「でも……打ち上げが」
『まだ時間あるだろ』
言われて、好波は部屋の中に時計を探した。が、いつも寝室ではスマホを時計代わりにしていることを思い出して困惑する。
「……今、何時ですか?」
『5時だ。なんか欲しいもんあったら連絡しろ。那岐山さんには俺から欠席の連絡入れとく』
「でも……」
『黙って言うこと聞け。上司命令だ』
的場は叱り付けるように言って、電話を切った。好波はスマホを握った手を、ぱたりと枕元に置いて息をつく。
話しているだけでも、疲れた。
もう、5時か。そういえばカーテンの外が夕暮れどきのそれに変わっている。日中に一度、トイレに起きたとき、冷蔵庫にあった牛乳を口にした以外何も飲み食いしていないが、空腹よりも身体のだるさがつらい。
熱の出始めのような身体の痛みはなくなったが、とにかく頭がぼんやりしていた。
「……欲しいもの……れんらく……」
的場が言っていたことを復唱するが、スマホを持ち上げる気にもならず、またそのまま夢うつつをさ迷った。