恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
第3章 縮まない距離に荒療治
翌週の木曜には、イベント終了後のあれこれも済み、オフィスにはひとまず安堵の空気が流れていた。
「そういえば、今日で二週間ですよね。三谷くん、退院なのかな?」
「あー、今日の午前中に退院って言ってたはずだが」
岩瀬の呟きに秀一が答える。
先週までは何やかやとあった二人だが、今やさっぱり元通りだ。
違うのは、二人の喧嘩がなくなったことくらいか。それも三谷不在の今は当然といえば当然のことで、オフィスの他のメンバーに何か勘繰られることもなく、淡々と過ごしている。
「そうですか」
岩瀬が頷いて、肩に滑り落ちた髪を後ろに払った。
柔らかく揺れる濃紺の髪にふと目が行き、秀一は意識的に視線をPCへと逸らす。
夜の車内で触れた岩瀬の温もりと柔らかさは、今でも不意に蘇る。間近で嗅いだ岩瀬の匂いや切ない吐息も忘れるには至らない。
女を知らないわけではないが、ご無沙汰だった上、その相手が彼女ほど魅力のある女なのだ、当然といえば当然だろう。
が、どうにか冷静さを保っていられるのは、朝のサーフィンが解禁になったからだった。
朝焼けの中波に揺られれば、多少は煩悩も落ち着く。
「的場さん。先週のアンケート結果、クライアントから参考にいただきました。出力して、回覧しますね」
岩瀬は言って席を立ちながらマウスを数度動かした。椅子の背に手を添えて前傾しながらの動作に、胸元の影がいつもよりも濃くなる。
露出度の高い服を身につけるタイプではないが、その姿勢をとれば自然と胸の膨らみが目についた。
……人の気も知らないで。
内心ではそう思わなくはないが、あの日のことは割り切るべきだと分かっている。
予想外のハプニングが立て続いた仕事、好意を持っていた男の結婚、体調不良と重なれば、手近にいる人間にすがりつきたくなるのも当然だ。
あの夜、助手席のシートを倒したとき、いやそもそもドライブに誘ったときにも、秀一に下心が全くなかったとは言いきれない。
それでも、目が合い、自然と唇を重ねた後、離れようとした秀一を引き止めたのは岩瀬の方だった。
華奢な腕が、秀一の首に巻き付き。
重なり合う唇の合間から、ときどき甘い吐息が漏れてーー
思い出して下半身が疼いた。唇を引き締めて眉を寄せる。岩瀬が紙の束を手にして秀一のデスク横に立った。
「どうかしました? なんか難しい顔してますけど」
いつものように澄ました顔で言われると、どことなく悔しさを感じて、意地悪をしたくなる。
「別になんでもないよ。もう那岐山さんに会えないのは残念だなーと思っただけだ」
「あー、そうですか」
岩瀬は呆れたように半眼になり、手にしていた紙の束を乱雑にキーボードの上に放った。
「もう一つ残念なこと教えておきますけど、那岐山さんは婚約者がおられるそうですよ。迫って訴えられたりせずに済んでよかったですね!」
ふん、と鼻息荒く言って、岩瀬はぷいっと席へ戻っていく。
宇津木が後ろで苦笑した。
「なんだなんだ、一段落ついたらすぐ喧嘩か? せっかく静かになるかと思ってたのに」
宇津木の言葉に、岩瀬が唇を尖らせる。
「私は真実を述べただけです」
「俺も素直な感想を言っただけだよ」
秀一の言葉に、岩瀬はちらりと睨み返してきた。
とそのとき、ドアの外から二人の男の声が聞こえてくる。
「いやー、すみません冴木さん、助かりましたぁ」
「いやいや。まだ完治してるわけじゃないんだろ? 無理しちゃ駄目だよ」
「優しいなぁ冴木さん。俺が女だったら惚れちゃう」
「ははははは。そう? そりゃ嬉しいね。ーーほら、先にどうぞ」
がちゃりと開いたドアから現れたのは、入院していた三谷だった。
「どぉもー! 三谷堂太、無事退院しましたっ! みなさまがたには本当にご迷惑おかけしましたっ」
ぺこり、と勢いよく頭を下げるや、バランスを崩してたたらを踏みかける。その肘をぱっと支えたのは、後ろから入ってきた冴木だった。
「やあ、どうも。支所のみなさん。ゴールデンウイークはお疲れさまでした」
にっこりと爽やかな笑顔を浮かべる同期の姿に、秀一の顔から表情が抜け落ちる。
「……なんでテメーがいるんだ」
「やだなー的場ちゃん、顔怖いよー? ちょっと近くに用があったから寄ったのに」
冴木は笑うと、視線を岩瀬の方へと向けた。
「岩瀬さんも、体調大丈夫? 打ち上げの夜、的場ちゃんてば岩瀬さんの様子が気になって上の空だったみたいだからさー、そんなに具合悪そうだったのかなって俺も心配してたんだよ」
「え? あ、そうですか」
岩瀬が困惑した顔で立ち上がり、頭を下げた。
「すみません、ご心配おかけしました」
「ううん。元気になったならそれでいいよ」
冴木は三谷がきちんと立ったのを確認して、手にしていた荷物を三谷のデスクに置いた。
「すみません、ありがとうございます」
「ちょっと運んだだけだから。たいしたことないよ」
恐縮する三谷に微笑み、冴木は宇津木の方へ向かう。
「宇津木さんも、お疲れさまでした。百貨店でのイベントの件、本社の方にも大成功と伝えておきましたので」
「ははははは、それは助かるな。今後は実績を認めてアレコレ口出ししないでもらえるようになるといいが」
「口出し?」
宇津木の言葉に岩瀬が首を傾げる。冴木は秀一と岩瀬の顔を見比べてにやりとした。
「岩瀬さん、聞いてないんだ? 本社から結構、あーしろこーしろ連絡してたと思うよ」
「聞かせる必要ねぇだろ」
冴木の言葉に応じたのは秀一だった。
あえて聞かせないようにしていたことなのだ。今でも聞かせる必要はないだろうにと心中で毒づく。
「同じ関東圏だろうと、こっちにはこっちのやり方ってもんがあるんだよ。本社でうまくいったやり方をそのまま持ってきてこっちでうまくいくとは限らないだろーが」
「それはおっしゃる通りだ」
冴木はにこにこしながら、秀一の肩をぽんと叩いた。
「で、部下想いの的場くんは、岩瀬さんに不要なストレスが行かないように自分のところで止めてたわけね?」
「……別にそういうつもりじゃ」
視線を逸らせた先に岩瀬の戸惑うような表情を見て、秀一は内心舌打ちした。肩に添えられた冴木の手を振り払う。
「もう終わった話だろ。お前ほんと何のために来たんだよ」
「つれないなー。そんな仏頂面じゃあ良縁も逃すよ?」
「お前との縁は要らない」
「言うねぇ」
冴木はくつくつ笑いながら、「長島さん、これ、差し入れ。みんなで食べて」と紙袋を長島に渡した。
袋を見た長島が「あれ、これ最近人気なお店のですよね」と驚く。小山内も「わー!」と目を輝かせ、「冴木さん、さすが! センスがいい!」と絶賛する。
秀一が舌打ちするのを聞いたのか、冴木はふふと笑った。
「まあ、その日の波の様子よりも、女性陣が喜ぶ手土産の方が興味あるからね、俺は」
「うるせーよ」
「あはははは、的場さんの負けー」
「負けてねぇ」
遠慮ない言葉にひと睨みして返したが、当の小山内は「冴木さんの分もコーヒー入れますねー」と席を立ってあっさりとスルーされた。秀一はいらだちながらPCに向き直る。
「コーヒー飲んだら帰れよ」
「心外だなぁ」
冴木はくつくつ笑いながら、秀一のデスクに手をつき、声をひそめた。
「勝手にしろって言ったのはお前だろ?」
間近に寄せられたその目が、鋭く秀一を見てくる。
秀一が思わず岩瀬の方を見やると、首を傾げる姿が見えた。
「だから、勝手にさせてもらいに来たよ」
冴木は言って身体を起こすと、三谷に明るく声をかけた。
「三谷くん、明日以降はもう出勤できるの?」
「一応……松葉杖つきながらですけど」
「よかったよかったー」
「でも、なにかと大変ねぇ」
秀一はその会話を聞きながら、デスクに置いてあるコップに手を伸ばす。
ときどき、岩瀬が秀一を気にかけるような視線を送って来ている。秀一はそれを察しつつ、あえて気づいていないふりをした。
口に運んだコーヒーは冷めきっていて、とてもではないが美味しくはなかった。
「そういえば、今日で二週間ですよね。三谷くん、退院なのかな?」
「あー、今日の午前中に退院って言ってたはずだが」
岩瀬の呟きに秀一が答える。
先週までは何やかやとあった二人だが、今やさっぱり元通りだ。
違うのは、二人の喧嘩がなくなったことくらいか。それも三谷不在の今は当然といえば当然のことで、オフィスの他のメンバーに何か勘繰られることもなく、淡々と過ごしている。
「そうですか」
岩瀬が頷いて、肩に滑り落ちた髪を後ろに払った。
柔らかく揺れる濃紺の髪にふと目が行き、秀一は意識的に視線をPCへと逸らす。
夜の車内で触れた岩瀬の温もりと柔らかさは、今でも不意に蘇る。間近で嗅いだ岩瀬の匂いや切ない吐息も忘れるには至らない。
女を知らないわけではないが、ご無沙汰だった上、その相手が彼女ほど魅力のある女なのだ、当然といえば当然だろう。
が、どうにか冷静さを保っていられるのは、朝のサーフィンが解禁になったからだった。
朝焼けの中波に揺られれば、多少は煩悩も落ち着く。
「的場さん。先週のアンケート結果、クライアントから参考にいただきました。出力して、回覧しますね」
岩瀬は言って席を立ちながらマウスを数度動かした。椅子の背に手を添えて前傾しながらの動作に、胸元の影がいつもよりも濃くなる。
露出度の高い服を身につけるタイプではないが、その姿勢をとれば自然と胸の膨らみが目についた。
……人の気も知らないで。
内心ではそう思わなくはないが、あの日のことは割り切るべきだと分かっている。
予想外のハプニングが立て続いた仕事、好意を持っていた男の結婚、体調不良と重なれば、手近にいる人間にすがりつきたくなるのも当然だ。
あの夜、助手席のシートを倒したとき、いやそもそもドライブに誘ったときにも、秀一に下心が全くなかったとは言いきれない。
それでも、目が合い、自然と唇を重ねた後、離れようとした秀一を引き止めたのは岩瀬の方だった。
華奢な腕が、秀一の首に巻き付き。
重なり合う唇の合間から、ときどき甘い吐息が漏れてーー
思い出して下半身が疼いた。唇を引き締めて眉を寄せる。岩瀬が紙の束を手にして秀一のデスク横に立った。
「どうかしました? なんか難しい顔してますけど」
いつものように澄ました顔で言われると、どことなく悔しさを感じて、意地悪をしたくなる。
「別になんでもないよ。もう那岐山さんに会えないのは残念だなーと思っただけだ」
「あー、そうですか」
岩瀬は呆れたように半眼になり、手にしていた紙の束を乱雑にキーボードの上に放った。
「もう一つ残念なこと教えておきますけど、那岐山さんは婚約者がおられるそうですよ。迫って訴えられたりせずに済んでよかったですね!」
ふん、と鼻息荒く言って、岩瀬はぷいっと席へ戻っていく。
宇津木が後ろで苦笑した。
「なんだなんだ、一段落ついたらすぐ喧嘩か? せっかく静かになるかと思ってたのに」
宇津木の言葉に、岩瀬が唇を尖らせる。
「私は真実を述べただけです」
「俺も素直な感想を言っただけだよ」
秀一の言葉に、岩瀬はちらりと睨み返してきた。
とそのとき、ドアの外から二人の男の声が聞こえてくる。
「いやー、すみません冴木さん、助かりましたぁ」
「いやいや。まだ完治してるわけじゃないんだろ? 無理しちゃ駄目だよ」
「優しいなぁ冴木さん。俺が女だったら惚れちゃう」
「ははははは。そう? そりゃ嬉しいね。ーーほら、先にどうぞ」
がちゃりと開いたドアから現れたのは、入院していた三谷だった。
「どぉもー! 三谷堂太、無事退院しましたっ! みなさまがたには本当にご迷惑おかけしましたっ」
ぺこり、と勢いよく頭を下げるや、バランスを崩してたたらを踏みかける。その肘をぱっと支えたのは、後ろから入ってきた冴木だった。
「やあ、どうも。支所のみなさん。ゴールデンウイークはお疲れさまでした」
にっこりと爽やかな笑顔を浮かべる同期の姿に、秀一の顔から表情が抜け落ちる。
「……なんでテメーがいるんだ」
「やだなー的場ちゃん、顔怖いよー? ちょっと近くに用があったから寄ったのに」
冴木は笑うと、視線を岩瀬の方へと向けた。
「岩瀬さんも、体調大丈夫? 打ち上げの夜、的場ちゃんてば岩瀬さんの様子が気になって上の空だったみたいだからさー、そんなに具合悪そうだったのかなって俺も心配してたんだよ」
「え? あ、そうですか」
岩瀬が困惑した顔で立ち上がり、頭を下げた。
「すみません、ご心配おかけしました」
「ううん。元気になったならそれでいいよ」
冴木は三谷がきちんと立ったのを確認して、手にしていた荷物を三谷のデスクに置いた。
「すみません、ありがとうございます」
「ちょっと運んだだけだから。たいしたことないよ」
恐縮する三谷に微笑み、冴木は宇津木の方へ向かう。
「宇津木さんも、お疲れさまでした。百貨店でのイベントの件、本社の方にも大成功と伝えておきましたので」
「ははははは、それは助かるな。今後は実績を認めてアレコレ口出ししないでもらえるようになるといいが」
「口出し?」
宇津木の言葉に岩瀬が首を傾げる。冴木は秀一と岩瀬の顔を見比べてにやりとした。
「岩瀬さん、聞いてないんだ? 本社から結構、あーしろこーしろ連絡してたと思うよ」
「聞かせる必要ねぇだろ」
冴木の言葉に応じたのは秀一だった。
あえて聞かせないようにしていたことなのだ。今でも聞かせる必要はないだろうにと心中で毒づく。
「同じ関東圏だろうと、こっちにはこっちのやり方ってもんがあるんだよ。本社でうまくいったやり方をそのまま持ってきてこっちでうまくいくとは限らないだろーが」
「それはおっしゃる通りだ」
冴木はにこにこしながら、秀一の肩をぽんと叩いた。
「で、部下想いの的場くんは、岩瀬さんに不要なストレスが行かないように自分のところで止めてたわけね?」
「……別にそういうつもりじゃ」
視線を逸らせた先に岩瀬の戸惑うような表情を見て、秀一は内心舌打ちした。肩に添えられた冴木の手を振り払う。
「もう終わった話だろ。お前ほんと何のために来たんだよ」
「つれないなー。そんな仏頂面じゃあ良縁も逃すよ?」
「お前との縁は要らない」
「言うねぇ」
冴木はくつくつ笑いながら、「長島さん、これ、差し入れ。みんなで食べて」と紙袋を長島に渡した。
袋を見た長島が「あれ、これ最近人気なお店のですよね」と驚く。小山内も「わー!」と目を輝かせ、「冴木さん、さすが! センスがいい!」と絶賛する。
秀一が舌打ちするのを聞いたのか、冴木はふふと笑った。
「まあ、その日の波の様子よりも、女性陣が喜ぶ手土産の方が興味あるからね、俺は」
「うるせーよ」
「あはははは、的場さんの負けー」
「負けてねぇ」
遠慮ない言葉にひと睨みして返したが、当の小山内は「冴木さんの分もコーヒー入れますねー」と席を立ってあっさりとスルーされた。秀一はいらだちながらPCに向き直る。
「コーヒー飲んだら帰れよ」
「心外だなぁ」
冴木はくつくつ笑いながら、秀一のデスクに手をつき、声をひそめた。
「勝手にしろって言ったのはお前だろ?」
間近に寄せられたその目が、鋭く秀一を見てくる。
秀一が思わず岩瀬の方を見やると、首を傾げる姿が見えた。
「だから、勝手にさせてもらいに来たよ」
冴木は言って身体を起こすと、三谷に明るく声をかけた。
「三谷くん、明日以降はもう出勤できるの?」
「一応……松葉杖つきながらですけど」
「よかったよかったー」
「でも、なにかと大変ねぇ」
秀一はその会話を聞きながら、デスクに置いてあるコップに手を伸ばす。
ときどき、岩瀬が秀一を気にかけるような視線を送って来ている。秀一はそれを察しつつ、あえて気づいていないふりをした。
口に運んだコーヒーは冷めきっていて、とてもではないが美味しくはなかった。