恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
「あれ……? 的場さんは?」

 席に戻ってきた好波は、的場の不在に気づいて周囲を見回した。
 冴木はジョッキを口に運びながら何食わぬ顔をしている。

「帰ったよ」
「えっ?」

 あっさりと言われて、好波は戸惑う。
 それを気にもせず、冴木はジョッキと皿を手に好波の正面の席へ移った。さっきまで的場が座っていた席だ。
 自分が腰を下ろすと、「どうぞ」と好波に元の席を勧める。好波は困惑しながらも、大人しく従った。

「あの……帰ったって、何かあったんですか?」
「さあ。急用でも思い出したんじゃないかな」

 明日にでも聞いてみてよ、とにこりと笑う冴木の目に、本心は見えない。好波は口を開きかけたが、思い直して閉じた。
 明らかに乗り気でなかった的場の表情を思い出す。罪悪感に駆られてうつむいた。

「……やっぱり、迷惑だったんですかね……」
「どうかなぁ」

 冴木はふふ、と笑いながら、ビールジョッキを傾ける。

「俺なら嬉しいけどねぇ。気になってる子があんまりつき合いのない男に誘われて、ボディガード役お願いされるなんて」
「気にっ……」

 好波は冴木の言葉に面食らって顔を上げた。冴木の口元はジョッキで隠れていたが、目は明らかに笑っている。

「ま、的場さんは……別に私のことなんて」
「ほんとにそう思う?」

 冴木は興味深そうに頬杖をつき、好波を観察するような目で見つめた。

「あいつ、面倒見はいいけどオンナノコにここまで干渉しないよ。だって、勘違いされたら面倒だもん。って、本人が言ってたくらいだし。……でも、岩瀬さんには結構がっつり干渉してるよね。放っておけないんじゃない?」

 その言葉に、好波は戸惑った。
 そうだったらと期待すると同時に、自意識過剰になるなと理性が囁く。

「……それはきっと……私が、人に頼るのが……下手だからで」
「それなら、なおさらじゃない」

 冴木は言いながら、皿に残っている料理を口に運ぶ。
 冷えきってしまっているそれを、文句も言わずに食べながら続けた。

「甘え下手ならなおさら、頼ってもらって嬉しかったんじゃないの。俺と飲みたくないなんて言いながら、岩瀬さんの頼みだからって黙ってつき合ってさ……」

 そこまで言ったところで、冴木は突然噴き出した。
 好波は驚いてまばたきする。

「ほんっと、しゃべんなかったよね。俺らしゃべってるのむくれて見ててさ。話振ってもムスッとしてるし。そんなに岩瀬さんの隣に座られたくないなら、自分が座ればよかったんだよ。わざわざ正面選んで座ってさ……」

 ひとり、ツボに入ったらしい冴木は、ひとしきり笑った後でまた好波を見た。
 冴木のその表情は、今までにないほど打ち解けて見える。これが彼の素なのだろうと、好波はやや戸惑っていた。

「で、岩瀬さんはどうなの?」
「わ、私……?」
「そ。的場のこと、どう思ってんの」

 冴木の微笑みは穏やかで、もう茶化す気はないらしい。
 好波はどう答えたものかと目をさまよわせ、言葉を探した。

「……信頼……してます」
「うん。それで?」
「……意外と、優しい人なんだなって……最近、ようやく知って」
「そうなんだ」
「……でも……」

 好波は言葉を途切れさせ、口元を手で覆った。
 この感情を口にしてもいいものか。
 冴木が不用意に口外することを恐れているわけではなかった。きっと、彼はあえて言いふらしたりなどしないだろう。
 恐れているのは、自分の感情の矛先だった。口にしてしまうことで、自分が認めることになればーー今後、どうなってしまうのか。
 これからも、ただの上司と部下でいなければいけないのなら……的場がそれを望んでいるのなら、好波もそのままでいられるよう、自分を律しなければいけない。

「あんまり難しく考えちゃ駄目だよ」

 冴木は好波の考えていることなどお見通しのようだった。座り直して、ため息混じりの笑顔を浮かべる。

「ここぞ、ってときには、気持ちに正直になることも大切。いろんなしがらみがあるのは分かるけど、人間、いつでもスマートに生きてなんていられないよ。……ってことを、ほんとは的場にも言いたかったけど、あいつは俺の話なんて聞かないだろうから、まあ仕方ないね」

 冴木は苦笑して、うつむいた好波の肩に手を伸ばした。
 ぽん、と触れられたその手は、紛れもなく男の手だったが、的場のものと違ってすらりとしている。

「でも、俺が君と仲よくなりたいなーと思ってたのはホント。的場なんて面倒くさい奴やめて、俺にしとく? 楽しませる自信あるよ」

 にこりと笑う冴木は、あえて剽軽ぶってくれているのだろう。好波はそうと察して、困ったように笑い返した。

「……確かに、冴木さんとお話するのは楽しいですけど」

 言いながら、店の外に目をやる。
 もう姿の見えない的場のことを思い出しつつ、続けた。

「でも……的場さんといると、安心できるんです。自分はちっぽけで、甘え下手で、いろんなことに不器用な人間なんだなって……そんな自分でいてもいいんだなって……そう思えるんです」

 海を眺めながら、的場が言っていた。

 海を前にすると、自分などいてもいなくてもいい存在なんだと思える。
 責任感にがんじがらめになった人間には、それがとてもありがたく感じるときがあるのだ。
 不完全な、ありのままを受け入れてもらえているような。

「そっか。残念」

 冴木は肩をすくめてジョッキに残ったビールを飲み干し、伝票を手にした。

「でも、しばらくは俺の隣も開けておくから。もし気が変わったらいつでも連絡ちょうだいね、岩瀬さん」

 冴木は財布を出そうとする好波を手で制して、レジへ向かう。好波は戸惑いながら、両手に持ったビールジョッキを見つめた。
 ほとんど泡をなくした琥珀色の液体に、ぼんやりと自分が映り込んでいる。

「……行こうか」
「はい」

 好波は冴木に促されて立ち上がった。去り際、的場が使っていた皿と箸が目に入る。
 いつの間にそうしたものか、箸袋は簡単な箸置きに変わっていた。
 本当に、不思議なところで繊細な人だ。
 だからこそ……少しでも支えになりたいと、そうなれたらと、思っていたのだが。

 卓上から目を引きはがして、前を歩く冴木に続く。
 シワのない冴木のスーツの背中を見つめながら、心は的場のことを想っていた。
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