恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
 近くの立体駐車場に停めた愛車に乗り込むと、秀一は深々と息を吐き出した。
 目を閉じて背もたれに身体を預け、息を吸って、吐く。
 まぶたの裏には、楽しげな岩瀬と冴木の姿が残っていた。
 その残像に苛立ち、舌打ちをして目を開ける。日が暮れた今や、駐車場の中は最低限の明かりばかりだ。薄暗いコンクリート張りの一面を、ライトが照らし出している。
 居酒屋の暖色照明とは違う青白い光に、またため息が込み上げた。
 軽く頭を振って苛立ちを振り払い、エンジンをかけようとブレーキに足をかけたとき、ふと助手席に目が行く。
 そこは、最近数度、岩瀬が座った席だ。
 夕飯を共にし、駅に送って行った夜も、こういう青白い明かりが岩瀬を照らし出していた。
 白い肌、うっすら開いた唇、深い呼吸ーー
 疲れていたのだと分かってはいても、常に気を張って警戒しているはずの彼女の無防備な姿を見られたことは、正直嬉しかった。

 ……嬉しかったのだ。

「……くそっ」

 ハンドルを軽く叩く。そのまま両手を添え、その上に額を預けた。
 胸の中にモヤモヤと燻っていた苛立ちは、今や明確な腹立ちに変わっている。
 奥歯を噛み締めて目を閉じる。
 耐えろ、と自分に言い聞かせた。

 岩瀬とは、ただの上司と部下だ。
 秀一が職場での出会いを求めて来なかったのと同様、彼女とて職場は職場と割りきったスタイルを通している。
 彼女に、一線を超える気はないはず。

 確かに、珍しく、秀一の隣でくつろいだ姿も見せた。
 だがそれも、偶然が重なってのことだ。
 決して、彼女の意思ではないはず。
 気持ちに任せて、関係を壊してはならない。

 ーーもし、岩瀬が冴木の手を取るならーー

 手で顔を覆う。下唇を噛み締める。

 暗いはずの視界に、手を取り合う岩瀬と冴木の幻想が浮かぶ。
 なにかを引きちぎられるような痛みが、焼けつくように胸を走る。

「ああ、くそっ!」

 バン、とまた、秀一はハンドルを叩いた。
 そして勢い任せにドアを開け、外へ出る。
 歩き出してしまえば、もう歯止めは効きそうになかった。
 それなのに、心中にはいまだ葛藤が渦巻く。

 ーーでも。
 もしも、俺が迎えに行って、岩瀬が嫌がったら。
 冴木と一緒にいるんだと、言ったとしたら。
 俺はそのとき、どうするんだ?

 頭の中の冷静な自分が、戸惑いながら問いかける。

 ーーそのときは。

「……海で泣くしかねぇな」

 ぽつりと口にしてみた言葉は、あまりに気弱すぎて、自分でも笑えた。
 秀一は、足早に来た道を戻っていく。

 信頼している部下とはいえ。
 心配したからとはいえ。
 一度も女を連れて行ったことのない「聖域」へと、秀一は岩瀬を連れて行ったのだ。
 自分の意思で。
 彼女に求められた訳でもなく。
 それがどういうことを意味するかなど、もうあのときには分かっていたはずだ。
 ーー本当なら。

 秀一は車の鍵を握りしめたまま、店に向かう階段を降り、最後の角を曲がる。
 店にまだ二人がいるかどうかなど分からない。
 が、いてくれと願うばかりだった。
 そのままホテルになど行かれてしまえば、もう追いかけることもできない。

 角を曲がったとき、店から出てきた男女が見えて、秀一はほっと胸を撫で下ろした。
 と同時に、手のひらの痛みに気づく。
 握りしめていた車の鍵が変に手に食い込んでいた。

 先に秀一に気づいたのは冴木だった。
 涼しげな顔に例のごとく涼しげな笑顔を浮かべて、冴木は手を挙げた。

「ーーどしたの、的場ちゃん。忘れもの?」

 秀一をおちょくるようなその笑顔を無視して、秀一はその一歩後ろに立つ岩瀬を見やる。
 岩瀬も秀一に気づいて目を丸くした。

「的場さん? ……帰ったんじゃ」
「ああ、帰るよ。忘れものを回収したらな」

 岩瀬は驚いたようにまばたきして、店の入口と秀一の顔を見比べる。
 次いで、困ったように首を傾げた。

「でもーーざっと見ましたけど、忘れものなんて、席には」
「ないだろうな」

 秀一は不機嫌な表情のまま、ずかずかと岩瀬に近づく。
 戸惑い見上げる目をしっかりと見返しながら、その手首を掴んだ。
 岩瀬がますます目を見開く。

「忘れもの、だ。ーー帰るぞ、岩瀬」

 岩瀬はぽかんとして的場を見上げる。秀一の後ろで、冴木が耐えかねたように噴き出した。

「ああ、そう。ようやく気づいた? 大事な大事な忘れもの」

 くつくつと笑う冴木は、秀一の横からひょこりと顔を出し、岩瀬に笑顔を向ける。

「よかったね、王子様が迎えに来てくれて。ーーはい、的場ちゃん、これ。ささやかながらプレゼント」

 冴木はにこにこしながら、秀一のジャケットの内ポケットに小さな紙袋を滑り込ませた。

「なんだこれ? 俺は喫煙者じゃねぇぞ」
「そんなこと知ってるよ。どうせすぐ必要になるから持っておきなさい」

 ぽんぽん、と秀一の肩を叩いて、冴木は笑う。

「でも、子猫ちゃんが手におえなくなったら、いつでも言ってね。俺がたっっぷり可愛がってあげるから」
「消えろクズ」
「どっちがクズだか」

 秀一が舌打ち混じりに吐き捨てると、冴木はやれやれと肩をすくめてため息をついた。

「まー、間に合ってよかったね。これが俺じゃなかったら、もうとっくに連れ去られて、食われちゃってたよ。気をつけて、王子様」

 ぽんぽんと秀一の肩を叩くと、ひらりと手を振って去っていく。秀一はその背を見送って、苛立ちを紛らわすようにため息をついた。

「ったく……ほんとチャラい奴」

 呟いたとき、手につかんだままのぬくもりが戸惑うように揺れたのを感じて我に返る。
 秀一の意図を図りかねたように見上げて来る岩瀬の顔を見て、手首を掴んだままだったことを思い出した。

「ああ……悪い」
「いえ……」

 気まずい沈黙。

「……王子様はねぇよな」

 何か会話を、と思った秀一の口から出たのはそんな一言だった。
 途端、岩瀬が噴き出す。

「……波乗りの王子様?」

 口を手で覆いながら、笑んだ目で見上げてくる。
 秀一の胸がぎゅっと締め付けられた。

「……王子様は勘弁してくれ」
「じゃあ、何でしょうね。頼れる上司?」
「それも……」

 やめろと言いかけて、口を閉ざす。
 冴木は軽い調子で好きなことを言って行ったが、結局岩瀬の気持ちがどうなのか、秀一には分からないままだ。

「……とにかく、行くぞ」
「行くって?」
「……送る」

 歩き出した秀一を、岩瀬が追いかけてくる。

「送るって、車でですか? 私、電車通勤ですけど」
「知ってるよ」

 秀一はいらだたしく言いながら頭を掻いた。

「今日だけだ。今日だけは車で送る。寝ててもいいぞ」
「いや、寝ませんけど……」

 岩瀬が半ば駆け足でついて来ていることに気づき、秀一は歩調を緩めた。

「とにかく、俺の車に乗れ。……上司命令だ」

 言いながら渋面になった。結局、自分が岩瀬に振りかざせる権限はそれしかないのだと自覚する。
 岩瀬は怪訝そうに眉を寄せながら「はぁ……」と納得していない返事をした。
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