恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
 的場に言われるがまま、好波は助手席に座った。
 的場は運転席に座るなり深々とため息をつく。
 その横顔をちらりと伺い見た。
 いったい何がどうなっているのか、好波には理解できない。
 が、とりあえず、日頃ユルいようでいて冷静な上司が、今はどうも感情が先走っているらしいことだけは読み取れた。
 的場はエンジンをかけようとする気配もなく、ハンドルを握り、トントンと指先で叩く。
 落ち着かなげな様子に、好波は黙って的場の気持ちが整うのを待った。
 的場はしばらくトントンとハンドルを叩いていたが、不意に脱力したように上体をハンドルに預ける。

「……今後……」

 しばらくの沈黙ののち、的場の口からは、散々探したらしい言葉がため息混じりに吐き出された。

「冴木と会うなら、俺がいないところでにしてくれ」

 気弱な調子で言われた言葉に、好波はさすがにカチンとした。
 苛立ちをため息で吐き出し、「的場さんって、ほんと……」と呻く。
 的場はハンドルの上から、困惑したような視線を送ってきた。

「な、なんだよ」
「なんだよ、じゃないです」

 好波はびしりと言い返し、的場の腕に触れた。
 スーツの上からでも分かる筋肉質な弾力を感じて、切なさが胸に広がる。

「的場さん、まだ、わかんないんですか?」
「だからなにがーー」
「私が!」

 好波は的場の言葉を遮って、強い語調で言った。

「私が誰にでも、黙ってあんな風に触られるって思ってるんですか!?」

 言いながら、涙が込み上げてきて目を逸らす。
 この車で。海岸の暗がりの中。ときどき、街道を走り去る車の明かりを、的場の目に見ながら。
 唇を重ね、その手に身体を委ねた時間を、忘れたはずもない。

 気付けば、吐き出した吐息が震えていた。歪んだ視界がいっそうぼやけてきて、危うくこぼれ落ちそうになる。

「……的場さん……だから……」

 的場の腕を掴んでいた手の力を緩める。

「的場さんだったから……私だって……」

 声が震えて、とうとう涙が頬を伝い落ちた。
 大袈裟に思われたくないと、顔を逸らす。
 的場の動きは止まっていた。

「……岩瀬?」

 的場が発した声は、戸惑いを含んでいた。
 好波はもうそれ以上を言う気にならず、目を逸らしたまま唇を引き結ぶ。
 冴木は思わせぶりなことを言っていたが、的場の気持ちは的場にしか分からない。好波に気があるかどうかなど、分からないのだ。
 ついつい期待してしまっていた自分に気づいて呆れる。
 ただの上司と部下。
 ーー的場はそう思っているのかもしれないのに。

 しばらくの沈黙の後、好波はゆっくりと息を吐き出した。
 車内の緊張が少し緩んだのを感じ、無理に笑顔を浮かべる。

「……いいです。送ってください」
「……いや、よくないだろ」
「じゃあ、なんなんですか」

 涙に濡れた頬を手の甲で拭って、ふて腐れつつ的場を睨みつける。
 的場は戸惑ったように目をさまよわせた。
 好波の胸中に、またしても苛立ちが沸き起こる。

「……なんなんですか、的場さんは。チャラチャラして、セクハラばっかり言う人かと思えば、テキパキ仕事さばくし後輩の面倒は見るし、負担にならない程度に気遣かってくれるし心配もしてくれるし、わ、私のこと……」

 好波は早口に言って、悔しくなってうつむいた。

「……何とも思ってないなら、そんなこと、しないでください。私だって、人間なんですから……ひとりの、ただの、おんな、なんですから」

 震える声で言ったとき、硬い身体に抱きしめられて息が詰まった。
 的場は好波を抱き寄せ、その頭に頬を寄せる。

「……つまり……」

 耳元で聞こえた的場の声は、珍しく緊張したように掠れていた。

「……上司と部下じゃなく……男と女として……お前と一緒にいてもいい、ってことか?」

 好波の目からまた涙が溢れる。的場の胸をできるだけ強く叩くと、「痛て」と力を緩めた腕の中から、その顔を睨みつけた。

「馬鹿! 何度も言わせないで!」

 好波の言葉は途中で的場の唇に遮られた。
 涙のせいでうっすらと塩からいキスが、好波の心を溶かしていく。
 それは海岸で交わしたキスよりももっと獰猛で、性急で、余裕のない口づけだった。
 好波は酔いしれながらも、さらにさらにと続きを求める。
 しばらく無言のまま唇を貪った後、的場はわずかに顔を離した。

「……ほんとに?」
「こんな嘘言わない」
「いつから?」
「そんなこと聞かないで」

 私だって分からない。
 そう心の中で言いながら、それ以上問わせないよう、今度は好波から唇を求めた。
 的場は黙ってそれを受け止め、答える。車内にはキスの水音だけが響き、互いの息と体温が上がって来るのが分かる。
 不意に、的場が好波を止めた。

「待て」
「……なに?」
「だから、待てって」

 言う的場は困惑したように目をさまよわせ、互いの顔が見える位置まで頭を引いた。
 突然の拒否に、好波は思わず唇を尖らせる。

「……今度はなにを気にしてるんですか」
「気にしてるっつーか……」

 目を泳がせる的場に苛立ち、好波は自分から顔を寄せた。ちゅ、と軽く唇が重なり、的場が慌てる。

「待てって。これ以上したら……止まらなくなるだろ」

 好波は呆れた。

「……ここまできて、止めるつもりなんですか?」
「いや、ここまできてって……展開が急過ぎるだろ?」

 困惑する的場の表情に、好波は思わずため息をつく。
 ただのロマンチストなのか、それとも。

「……意外と意気地無しなんだ、的場さん」

 半眼で言った好波に、的場は渋面になった。

「お前なぁ、人がどれだけ我慢してるとーー」
「抱いてください」
「っ……」

 好波は的場の手を取り、自分の腰へと引き寄せる。
 大きな手は好波の腰に触れ、びくりと震えた。

「……あの夜だって……私は、そのつもりでした」

 じっと、色素の薄いその目を見上げる。
 的場はもう、その目を逸らそうとはしなかった。
 ごくりと、的場が唾を飲む音がする。

「……いいんだな?」

 的場は好波の唇に軽く口付けると、吐息のような囁きで続けた。

「やっぱり帰るっつっても、もう聞かねぇぞ」

 好波はふふ、と鼻で笑って、答える代わりに再び唇を寄せた。
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