恋と喧嘩は支社の華~お局OLはイケメン上司になびかない
結局、秀一は岩瀬の家で一泊することにした。
ーーまさかこういう展開になるとはなぁ……。
さすがに、発起人である三谷もここまでは想定していなかったに違いない。
岩瀬の責任感の強さを知ってはいたが、日頃から秀一を警戒している上、ここ一週間ほどはさんざん茶化していた自覚がある。
ーーまあ、間違いが起こるとも思えないが。
多少アルコールで気が大きくなっているとはいえ、秀一も岩瀬も、安易に一線を越えるようなたちではないはずだ。
岩瀬の家は駅から徒歩十分ほどの集合住宅だった。玄関に入ると、間取りはいかにも単身世帯用の1LKだ。
「……綺麗にしてるんだな」
「別に、普通じゃないですか」
玄関先で秀一が言うと、岩瀬は淡々と返してきた。
彼女も気まずいのだろう。視線を交わさずに靴を脱ぎ中へ入る。
靴箱の上には、小さな枝木を象ったシルバーのアクセサリーかけが置いてあった、
秀一も見覚えがあるようなシンプルなアクセサリーがいくつかかかっており、小さなピアスもその下に並んでいる。
それを見るともなしに見ていた秀一の前で、頷いた岩瀬が髪をスルリとほどいた。
ふわりと鼻先に香う、いつもの甘い柑橘系。
岩瀬は手櫛で軽く髪を整え、一日の役目を終えた味気ないゴムをシルバーの小さな枝にかけた。
その動きは、帰宅した彼女の日常なのだろう。ふぅ、と息を吐き出した横顔は仕事モードから自宅モードに切り替わっているーー当然、無意識だろうが。
狙った動きではない。
それが逆に、秀一を煽った。
恋人でもない男と帰宅しても、いつもと変わらずその目の前で髪を解くーー
――これが俺じゃなければ、襲われても文句言えないぞ。
思いつつも、頭のどこかで察している。あれこれセクハラ紛いな発言はしていても、秀一だからこそ、警戒せずに振る舞っているのだろう。
本気で抵抗する部下を組み敷いてまでことに及ぶほど、飢えてもいないし相手に不足しているわけでもない。
そんな岩瀬の余裕がやや癪に障る。
「? なんですか?」
つい見入っていたら、不思議そうな顔で見上げられた。
白目との境目がクリアな濃紺の瞳、それを縁取る扇状のまつげ。他の女ならば照れてすぐに逸らす秀一の視線も、岩瀬はためらいなく見つめてくる。
ぞわり、と背中から腰に痺れのような「予感」が走った。
この女を手に入れたら――どんな甘美な気分に浸れるだろう。
そんな自分勝手な本能。
「いや、別に」
言ってから、秀一は意図的に口の端を上げた。
「……綺麗だなと思っただけだ」
途端に、岩瀬の頬にぱっと朱が載る。岩瀬は視線をさまよわせた後、「そ、そんなに何度も、部屋褒めなくてもいいです」と上擦った声で言った。
そのあからさまな動揺が心地よく、秀一は笑う。
岩瀬はジャケットを壁にかけ、秀一にもハンガーを渡した。
秀一もそれに倣ってジャケットを脱ぐ。その間、身体に岩瀬の視線を感じたが、気づいていないふりをした。
「ここにかけていいのか?」
「あ、はい。どうぞ」
台所で手を洗いながら、好波が頷いた。その頬が少し赤いのは、飲んだアルコールのせいか――それとも。
秀一の口の端が引きあがる。
「コーヒー要ります?」
「ああ、じゃあ頼む」
答えて、湯を沸かし始めた好波の後ろに立つ。
岩瀬の背中が緊張したのが分かった。白いシルク様のカットソーの背を、黒いロングヘアがさらりと覆っている。
「な、なんですか……?」
「んー?」
秀一はその髪に鼻先を近づけ、次いで首筋に、そして服にと顔を下ろしていく。岩瀬はちらちら、秀一の様子をうかがっている。
内心動揺しているのだが、そうと悟られないようにしているのだろう。
秀一はくすりと笑った。
「匂い、どこからすんのかなーと思って」
「に、匂い? 匂いって――どんな」
岩瀬が困惑した表情で振り向く。秀一は微笑みを返した。
「柑橘系の。――髪かな。柔軟剤じゃなさそう」
「ああ……ヘアオイルかもしれません」
岩瀬は言い、背後にいる秀一から距離を取ろうとするように肩をすくめる。
秀一はそう察しつつ、鼻先をまた岩瀬の髪に寄せた。
「あ、あの。一日働いた後だし、汗臭いと思いますけど」
「そんなことないよ。いい匂い。甘い」
「甘い? ……柑橘系なのに?」
指摘されて、それもそうだと顔を上げる。
「そういえばそうだな。柑橘系だけど甘い。――岩瀬の体臭?」
「や、やめてくださいよ。も、もう、いいから。いいから、向こうに座っててくださいっ」
岩瀬は言って、ぐいぐいと押すように秀一を椅子に座らせた。キッチン横に置かれた一人掛け用の机と椅子は、彼女が食事するためのものだろう。
やや背の高い椅子に腰をひっかけるようにして、コーヒーを淹れる岩瀬を眺める。
「あの、うちインスタントしかないんで。美味しくないとか言わないでくださいね」
「あー、うん。それはそういうもんだと思って飲むから大丈夫」
秀一は頬杖をつきながら答えた。
岩瀬がちらりと秀一を見やる、その表情はどこか恨めしげだ。馬鹿にされたと思っているのだろう。
――ほんと、負けず嫌いなのな。
秀一の軽口に本気で食いついてくる、仕事でのいつもの表情が重なる。
――そうそう、その顔だ。
何となく満足を感じて、秀一は頬杖をつく。
とにかく、彼女がツンと澄ましているのはあまり気に入らないのだ。
秀一はこみ上げた笑いを堪えながら、居心地悪そうにコーヒーを準備する岩瀬を見ていた。
ーーまさかこういう展開になるとはなぁ……。
さすがに、発起人である三谷もここまでは想定していなかったに違いない。
岩瀬の責任感の強さを知ってはいたが、日頃から秀一を警戒している上、ここ一週間ほどはさんざん茶化していた自覚がある。
ーーまあ、間違いが起こるとも思えないが。
多少アルコールで気が大きくなっているとはいえ、秀一も岩瀬も、安易に一線を越えるようなたちではないはずだ。
岩瀬の家は駅から徒歩十分ほどの集合住宅だった。玄関に入ると、間取りはいかにも単身世帯用の1LKだ。
「……綺麗にしてるんだな」
「別に、普通じゃないですか」
玄関先で秀一が言うと、岩瀬は淡々と返してきた。
彼女も気まずいのだろう。視線を交わさずに靴を脱ぎ中へ入る。
靴箱の上には、小さな枝木を象ったシルバーのアクセサリーかけが置いてあった、
秀一も見覚えがあるようなシンプルなアクセサリーがいくつかかかっており、小さなピアスもその下に並んでいる。
それを見るともなしに見ていた秀一の前で、頷いた岩瀬が髪をスルリとほどいた。
ふわりと鼻先に香う、いつもの甘い柑橘系。
岩瀬は手櫛で軽く髪を整え、一日の役目を終えた味気ないゴムをシルバーの小さな枝にかけた。
その動きは、帰宅した彼女の日常なのだろう。ふぅ、と息を吐き出した横顔は仕事モードから自宅モードに切り替わっているーー当然、無意識だろうが。
狙った動きではない。
それが逆に、秀一を煽った。
恋人でもない男と帰宅しても、いつもと変わらずその目の前で髪を解くーー
――これが俺じゃなければ、襲われても文句言えないぞ。
思いつつも、頭のどこかで察している。あれこれセクハラ紛いな発言はしていても、秀一だからこそ、警戒せずに振る舞っているのだろう。
本気で抵抗する部下を組み敷いてまでことに及ぶほど、飢えてもいないし相手に不足しているわけでもない。
そんな岩瀬の余裕がやや癪に障る。
「? なんですか?」
つい見入っていたら、不思議そうな顔で見上げられた。
白目との境目がクリアな濃紺の瞳、それを縁取る扇状のまつげ。他の女ならば照れてすぐに逸らす秀一の視線も、岩瀬はためらいなく見つめてくる。
ぞわり、と背中から腰に痺れのような「予感」が走った。
この女を手に入れたら――どんな甘美な気分に浸れるだろう。
そんな自分勝手な本能。
「いや、別に」
言ってから、秀一は意図的に口の端を上げた。
「……綺麗だなと思っただけだ」
途端に、岩瀬の頬にぱっと朱が載る。岩瀬は視線をさまよわせた後、「そ、そんなに何度も、部屋褒めなくてもいいです」と上擦った声で言った。
そのあからさまな動揺が心地よく、秀一は笑う。
岩瀬はジャケットを壁にかけ、秀一にもハンガーを渡した。
秀一もそれに倣ってジャケットを脱ぐ。その間、身体に岩瀬の視線を感じたが、気づいていないふりをした。
「ここにかけていいのか?」
「あ、はい。どうぞ」
台所で手を洗いながら、好波が頷いた。その頬が少し赤いのは、飲んだアルコールのせいか――それとも。
秀一の口の端が引きあがる。
「コーヒー要ります?」
「ああ、じゃあ頼む」
答えて、湯を沸かし始めた好波の後ろに立つ。
岩瀬の背中が緊張したのが分かった。白いシルク様のカットソーの背を、黒いロングヘアがさらりと覆っている。
「な、なんですか……?」
「んー?」
秀一はその髪に鼻先を近づけ、次いで首筋に、そして服にと顔を下ろしていく。岩瀬はちらちら、秀一の様子をうかがっている。
内心動揺しているのだが、そうと悟られないようにしているのだろう。
秀一はくすりと笑った。
「匂い、どこからすんのかなーと思って」
「に、匂い? 匂いって――どんな」
岩瀬が困惑した表情で振り向く。秀一は微笑みを返した。
「柑橘系の。――髪かな。柔軟剤じゃなさそう」
「ああ……ヘアオイルかもしれません」
岩瀬は言い、背後にいる秀一から距離を取ろうとするように肩をすくめる。
秀一はそう察しつつ、鼻先をまた岩瀬の髪に寄せた。
「あ、あの。一日働いた後だし、汗臭いと思いますけど」
「そんなことないよ。いい匂い。甘い」
「甘い? ……柑橘系なのに?」
指摘されて、それもそうだと顔を上げる。
「そういえばそうだな。柑橘系だけど甘い。――岩瀬の体臭?」
「や、やめてくださいよ。も、もう、いいから。いいから、向こうに座っててくださいっ」
岩瀬は言って、ぐいぐいと押すように秀一を椅子に座らせた。キッチン横に置かれた一人掛け用の机と椅子は、彼女が食事するためのものだろう。
やや背の高い椅子に腰をひっかけるようにして、コーヒーを淹れる岩瀬を眺める。
「あの、うちインスタントしかないんで。美味しくないとか言わないでくださいね」
「あー、うん。それはそういうもんだと思って飲むから大丈夫」
秀一は頬杖をつきながら答えた。
岩瀬がちらりと秀一を見やる、その表情はどこか恨めしげだ。馬鹿にされたと思っているのだろう。
――ほんと、負けず嫌いなのな。
秀一の軽口に本気で食いついてくる、仕事でのいつもの表情が重なる。
――そうそう、その顔だ。
何となく満足を感じて、秀一は頬杖をつく。
とにかく、彼女がツンと澄ましているのはあまり気に入らないのだ。
秀一はこみ上げた笑いを堪えながら、居心地悪そうにコーヒーを準備する岩瀬を見ていた。