愛想のない教育係が、私にだけ甘い理由
フロント裏の控室で来賓対応の最終確認をしていると、隣の準備室からベテランスタッフの声が漏れてきた。

「総支配人が、昨夜遅くに体調を崩されたんでしょう。式典のご挨拶、京介さんが代役ですって」

「会長が直々にご指名だそうよ。専務を差し置いて、ってもっぱらの噂」

代役。京介さんが、来賓の前に立つ。早朝のあのカードは、挨拶の原稿だったのだ。あの人なら、きっと大丈夫。

そこへ、秘書室から封筒が届いた。

「代役の件で、今朝付けの差し替えです。席次表と席札を、お願いします」

席次表を開き、運営責任者席の欄を探す。

『伊集院京介様 会長ご令孫・次期総支配人候補』

伊集院(いじゅういん)。

初日に渡された理念カードの裏の、崩し字の署名が頭をよぎる。あの文字が、今ははっきりと読めた。

「うそ……」

思わず、口元を手で押さえる。あれほど近くで指導を受け、上着まで貸してくれた人が、急に遠い存在に思えて胸の奥が軋んだ。

彼のことを、もっと知りたいと思っていた。

仕事のことだけじゃない。何が好きで、何が苦手で、どうして時々、あんなに寂しそうな顔をするのか。

いつの間にか、そんなことまで知りたいと思っていた。

だからこそ、彼の本当の姿を、私だけが知らなかったことが苦しかった。

席札の差し替えは、私の仕事だった。ペンを執り、札の空欄に『伊集院京介様』と一画ずつ丁寧に書く。字は乱れなかった。

書き終えてから『会長ご令孫』の文字をもう一度読み返す。読み違いであってほしいと目を閉じた。
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