愛想のない教育係が、私にだけ甘い理由
前の職場で、私は「店員」としか呼ばれなかった。肩書きの向こうに誰がいるのかを、誰も確かめなかった。それが、あれほど嫌だったのに。

今、私が彼にしたのは同じことだ。

謝ろうと口を開いて、言葉が出なかった。何を言っても、肩書きの壁をもう一枚、積むだけのような気がした。

私は背を向けて歩き出した。角を曲がるまで、歩幅を乱さないことだけに集中した。

けれど、耐えきれなくなった私は、非常階段へ逃げ込んだ。扉が閉まると、音が消える。

冷えた手すりを握って、ガラス越しの庭園を見下ろした。夕日を受けた紅葉が、燃えるように赤い。その美しさが痛かった。

赤が滲んで、溶けていく。ぽたりと手すりに落ちた雫で、初めて泣いていると気づいた。

深呼吸を三度して、涙を拭った。戻らなければ。

◇

控室に戻ると、机の上に見覚えのあるカップが置かれていた。きれいに洗ってある。縁に、小さな付箋が貼られていた。

『あの茶が、今日一番うまかった。話は、お前が聞ける時でいい。待つ』

署名はない。角の揃った、几帳面な字だった。

言い訳ひとつ並べず、ただ私の歩幅に合わせてくれようとする二文字。不器用なその優しさが悔しいほど伝わってきて、私は付箋を手帳の奥に挟み込んだ。捨てられなかった。


会場に戻り、帰る来賓を見送っていた時だった。

「水無瀬さん、ですね」

振り向くと、先ほどの七三分けの男性が立っていた。
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