愛想のない教育係が、私にだけ甘い理由
翌日。会長室へ届ける資料を抱えて廊下を歩いていると、呼び止められた。

「水無瀬千紗さん、だね」

仕立てのいいグレーのスーツを着た、年配の男性だった。胸元の役職章に『専務取締役』とある。穏やかな顔つきなのに、目だけが笑っていなかった。

式典で、拍手を誰より遅く合わせていた人だ。

「鷲尾(わしお)だ。昨日、京介くんが経営会議を三十分ほど空けた。新人社員の早退のために、人事に住所まで開示させたそうだね。職権乱用というやつだ」

「申し訳ありません」

「彼は来年、この会社を背負う人間だ。四宮家との縁組は会社の将来にも関わるし、正式なお返事は年内に頂く」

年内。あと八日。

「君の研修も年内だったね。終われば、君と彼が同じ廊下を歩くこともない。特別扱いされたからと、妙な夢は見ないことだ。若い頃のいい思い出として、終わらせなさい」

親切を装った声が一言ずつ、足元を削っていく。

特別扱いでも、妙な夢でもない。彼が真摯に向き合ってくれた指導も、二人で重ねた時間も、すべて「ただの思い出」と切り捨てるなんて。

胸の奥で、怒りが静かに燃え上がった。

「……失礼いたします」

「頑張ります」という逃げの言葉を飲み込み、頭を下げた声は思ったよりはっきり出た。専務はわずかに眉を上げ、薄く笑う。

「期待しているよ」

遠ざかる背中が見えなくなっても、握りしめた指先は白いままだった。
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