猫かぶり紳士の癒し方~子リス系OLは疲れた彼に愛でられる~
メイク、よし。
服装、よし。
――笑顔、よし。
就業時間後のトイレで、菜摘はひとり、鏡に向かって笑顔を作った。
ちょっと強張っているけれど、女優でもないのだから仕方ない。叶うことならもう少しシャープになりたい、丸めの頬をくにくに伸ばして、ふぅっと息をついた。
手洗いをすませたとき、勝負下着が汚れていないこともばっちり確認澄みである。
思い切りセクシーすぎても引かれるかもと、ほどほどにフェミニンな下着は薄ピンク色のレーシーなデザインだ。
もちろん、この日のために新調した。
ちなみに色やデザインについて、光治にも意見を求めたが全く参考にならなかった。というか、あえて聞こえないふりをされた。まったくあてにならない幼なじみである。
嵐志とは、今夜、会社から数駅離れたレストランで食事する予定になっている。
待ち合わせはレストラン近くのカフェだけれど、途中でばったり嵐志と会うかもしれない。備えあれば憂いなし、ということで、職場のトイレで身支度を整えて行くことにしたのだ。
くるんと鏡の前で一周して、もう一度軽くうなずく。後ろでふわんとポニーテールが揺れる重さを感じたとき、お手洗いのドアが開いた。
「あら」
入って来たのは、ウェーブのかかったショートヘアの女性だった。百合岡翠。名前に相応しく美しく、宝塚の男役でも勤められそうなオーラを宿している。
やや猫目ぎみのぱっちり二重が、くるんと大きく開かれて菜摘を捉えた。
美人の登場に、菜摘の心臓がとくんと高鳴る。
「お疲れさま。総務の原田さんよね。今日はもう上がり?」
「は、はいっ」
うわずった声で答えながら、カバンを胸の前に抱きしめた。
社長秘書の百合岡は多くの社員にとって憧れの的だ。名前を覚えてもらえていることに感動しつつ、もしや社長が何か言ったのではと落ち着かない気分になる。
そわそわしている菜摘に、翠はヒールの音を立てながら近づいた。菜摘には履きこなせそうにない、ポインテッドトゥーの7センチヒール。黒くて目立たないが、パイソン柄なのが雰囲気に合っている。
翠は菜摘の前で立ち止まると、何のためらいもなく顔を寄せてきた。
ふわんと漂った香りに、菜摘はつい鼻を動かした。
――美人とはいい匂いがするものらしい。
思わずすんすんと鼻を鳴らしてから、不審がられるのではと、我に返って息を潜めた。
もう三十を過ぎているはずだが、翠はシワひとつ無い顔でくしゃりと笑った。
つい一瞬前までは色気を漂わせていたのに、唇の間から八重歯が見えたとたん、親しみやすい印象になる。
同性とはいえ胸が高鳴り、一気に心を掴まれた。
「……もしかして、これからデート?」
「ふぇっ、あっ、えとっ」
ずばり聞かれて火照った顔を、つんと翠につつかれる。
「あははっ。かーわいい。こんなカワイイ子と出かけられるなんて幸せ者ねぇ」
翠は言いながら、ジャケットの内側から口紅を取り出した。
美人の接近に緊張した菜摘は、距離ができてほっとした。
けれど、いい香りが離れてしまったのは名残惜しい。
なんとなく去るタイミングを逃して、というかもう少しお話したくて、鏡の中と実物の翠を見比べた。
「ゆ、百合岡さんは……?」
メイクを直しているということは、このままオフィスワーク、というわけではないのだろう。飲み会だろうか。
そう思って聞いたのだが、返ってきたのはにやりとした笑みだった。
「んー、私はこれから接待。オジサンたちと一杯ね」
くいっと酒をあおる仕草つきで言われて、菜摘は思わず恐縮する。
まさか仕事だとは。
「あはは、気にしないで。オジサンたちと飲むのは結構好きなのよ」
菜摘の戸惑いに気づいて、翠はからから笑いながら手を振った。見た目の印象よりさばけた気質らしい。
口紅を懐にしまうと、またヒールの音を立てて菜摘の前に立った。
「じゃ、お互いよい夜を過ごしましょうね」
ぽんと肩をたたいて出て行く背中に、菜摘はぺこりと頭を下げて見送った。
翠が去った後には、まだかすかにいい匂いが残っている。
自分の鼓動がいつもより早いことに気づいて、菜摘は一度深呼吸をした。
鏡に映った自分の顔が赤い。
さっきまでばっちりだと思っていた自分の姿が、翠を見た後ではかすんで見えるような気がする。
思わず、自分の身体を見下ろした。翠のすらりとしたスーツ姿と見比べて、一人で凹む。
菜摘とて、容姿にはそこそこ恵まれているつもりだ。
けれど、翠の美しさは、一線を画している。
――私も、せめてあと五センチ、身長があればなぁ。
一瞬よぎった考えを振り払おうと、首を横に振った。
***
嵐志が合流したのは、菜摘がカフェに到着した三十分後だった。
急いで来たのか、いつもきちんと撫で上げられている前髪が少し乱れている。
菜摘を見つけるなり、アーモンド型の目が細められた。その横に見える小さな泣きぼくろが、彼の色気を一層引き立てている。
軽く手を振る嵐志に、菜摘も手を振り返した。早足になる鼓動をなだめつつつ、ゆっくり立ち上がる。
近づいて来る嵐志の歩調に合わせて、気分は高まっていく。
嵐志とふたりで出かけるのは、今でもまだ夢のようだ。特にこうして待ち合わせるときには、まるでお姫様になったようなふわふわした気分になる。
「ごめんね、遅くなって。……できるだけ早く切り上げたんだけど」
どれくらい待った? と、嵐志は気遣うように腕時計と菜摘の顔を見比べる。菜摘はかぶりを振った。
「気にしてません。お仕事、お疲れさまです」
ぺこりと頭を下げると、嵐志ははにかむような笑顔を浮かべた。
机の上に乗ったコーヒーカップにちらりと目をやり、菜摘に微笑む。
「コーヒー、もういい? ……行こうか」
「はい」
菜摘が飲み干していたコップをさっと手にすると、カウンターへ持って行ってくれた。
ありがとうございます、と声をかけると、どういたしましてと笑顔が降ってくる。
歩く横で揺れる手。
――勝手に触れてよいものか。
嵐志の横顔とその手を見比べる菜摘に気づいたのか、嵐志はすっと手を伸ばしてくれた。
おずおずと指を触れると、嵐志は指を絡め、ぎゅっと握り返してくる。
それだけで満たされたような気持ちになって、自然と口元が弛んだ。
「――今日の店、行ったことある? 普段、食事っていったら、男どもと行くくらいだから。女性が好きそうな店ってあんまり思い当たらなくて」
これからはもう少し気にしてみるね、と笑う嵐志に、菜摘も微笑んだ。
「いえ、私はどこでも! ラーメンでもうどんでも焼き肉でも、全然大丈夫です!」
ラーメンや焼き肉はむしろ大好物だ。気が向くと光治を連行しているのだが、嵐志は社交辞令と取ったのだろう。「そりゃありがたいな」と笑って前を向いた。
菜摘も黙ってついていく。
百八十センチを超える嵐志と、百五十五センチの菜摘が並ぶと、どうしても会話が途切れがちになる。屈んでもらうのは申し訳ないし、かといって大声を出すのも憚られて、歩く間はいつも言葉少なになりがちだ。
それでも、手をつないで歩く時間はくすぐったい幸せに満ちている。
「店は向こう口だから。エスカレーターで行こうか」
嵐志は昇りのエスカレーターに菜摘を促した。
一段下に嵐志が立つと、身長差は十センチくらいにまで縮む。
後ろを見ると、いつもより近くに嵐志の顔があって、菜摘は思わずうろたえた。黙っているのも気まずくて、何か話題を、と思いついたのは、翠のことだ。
「あ、あの。会社を出る前、百合岡さんとばったり会って」
「翠と? フロア違うのに?」
「一階の……化粧室で。百合岡さんはこれから接待だそうで……」
ファーストネーム呼びに一瞬怯んだが、嵐志の話し方は淡々としている。
社長秘書の翠と、営業の嵐志は、年齢が近いこともありよくタッグを組んで仕事をしているらしい。
実はつき合っているんじゃないか、などとも言われているようだけれど、これは当人たちに聞いたわけではないので信じないことにしている。
「秘書さんは大変ですね。おじさんたちと接待があって」
菜摘の言葉に、嵐志は笑った。
「あいつ、そういうの平気だから。翠ちゃん翠ちゃんってチヤホヤされるの、嫌じゃないんだって」
「そ、そうなんですか……」
やっぱり、聞くからに親しげな口ぶりだ。
ただ思いついたから口にした話題だったが、やぶ蛇だったかもしれない。
恋人という噂が本当かどうか分からないが、嵐志と並ぶなら、ちびの菜摘などより翠の方がよっぽどお似合いだと思う。
身長だけじゃなく、色気の点でも、年齢の面でも。
そう思うと気分が沈んだ。
「……どうかした?」
ふわっと、髪に吐息がかかって、我に返った。
嵐志がまっすぐに菜摘を見ている。
間近にある端正な顔に、頬が熱を持った。
「あ、あのっ、何でも無いですっ」
「ほんと? なら、いいけど――あっ、危ない」
エスカレーターが上のフロアに着いたことに気づかず、たたらを踏んだ菜摘を嵐志が支えた。「す、すみませんっ」と慌てる菜摘に、嵐志が顔を寄せる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
すみません、とまた菜摘が謝ると、嵐志は微笑みながら手を離した。
「……軽いね」
「そ、そんなことないです」
「あと、柔らかい」
嵐志は目を細めながら菜摘の手を取った。真っ赤になってうつむく菜摘に、小さな呟きが降ってくる。
「ずっと抱きしめてたくなるくらいだ」
――それなら、一晩でも二晩でも!
喉元まで出かかって、菜摘はぐっと飲み込んだ。
確かに、今日こそはと決心はしてきた。
けれど、嵐志に引かれたらそれでオシマイなのだ。
――落ち着くのよ菜摘……落ち着いて、ここぞっていうときを待つのよ……!
自分にそう言い聞かせ、「そのとき」を待つ菜摘だった。
服装、よし。
――笑顔、よし。
就業時間後のトイレで、菜摘はひとり、鏡に向かって笑顔を作った。
ちょっと強張っているけれど、女優でもないのだから仕方ない。叶うことならもう少しシャープになりたい、丸めの頬をくにくに伸ばして、ふぅっと息をついた。
手洗いをすませたとき、勝負下着が汚れていないこともばっちり確認澄みである。
思い切りセクシーすぎても引かれるかもと、ほどほどにフェミニンな下着は薄ピンク色のレーシーなデザインだ。
もちろん、この日のために新調した。
ちなみに色やデザインについて、光治にも意見を求めたが全く参考にならなかった。というか、あえて聞こえないふりをされた。まったくあてにならない幼なじみである。
嵐志とは、今夜、会社から数駅離れたレストランで食事する予定になっている。
待ち合わせはレストラン近くのカフェだけれど、途中でばったり嵐志と会うかもしれない。備えあれば憂いなし、ということで、職場のトイレで身支度を整えて行くことにしたのだ。
くるんと鏡の前で一周して、もう一度軽くうなずく。後ろでふわんとポニーテールが揺れる重さを感じたとき、お手洗いのドアが開いた。
「あら」
入って来たのは、ウェーブのかかったショートヘアの女性だった。百合岡翠。名前に相応しく美しく、宝塚の男役でも勤められそうなオーラを宿している。
やや猫目ぎみのぱっちり二重が、くるんと大きく開かれて菜摘を捉えた。
美人の登場に、菜摘の心臓がとくんと高鳴る。
「お疲れさま。総務の原田さんよね。今日はもう上がり?」
「は、はいっ」
うわずった声で答えながら、カバンを胸の前に抱きしめた。
社長秘書の百合岡は多くの社員にとって憧れの的だ。名前を覚えてもらえていることに感動しつつ、もしや社長が何か言ったのではと落ち着かない気分になる。
そわそわしている菜摘に、翠はヒールの音を立てながら近づいた。菜摘には履きこなせそうにない、ポインテッドトゥーの7センチヒール。黒くて目立たないが、パイソン柄なのが雰囲気に合っている。
翠は菜摘の前で立ち止まると、何のためらいもなく顔を寄せてきた。
ふわんと漂った香りに、菜摘はつい鼻を動かした。
――美人とはいい匂いがするものらしい。
思わずすんすんと鼻を鳴らしてから、不審がられるのではと、我に返って息を潜めた。
もう三十を過ぎているはずだが、翠はシワひとつ無い顔でくしゃりと笑った。
つい一瞬前までは色気を漂わせていたのに、唇の間から八重歯が見えたとたん、親しみやすい印象になる。
同性とはいえ胸が高鳴り、一気に心を掴まれた。
「……もしかして、これからデート?」
「ふぇっ、あっ、えとっ」
ずばり聞かれて火照った顔を、つんと翠につつかれる。
「あははっ。かーわいい。こんなカワイイ子と出かけられるなんて幸せ者ねぇ」
翠は言いながら、ジャケットの内側から口紅を取り出した。
美人の接近に緊張した菜摘は、距離ができてほっとした。
けれど、いい香りが離れてしまったのは名残惜しい。
なんとなく去るタイミングを逃して、というかもう少しお話したくて、鏡の中と実物の翠を見比べた。
「ゆ、百合岡さんは……?」
メイクを直しているということは、このままオフィスワーク、というわけではないのだろう。飲み会だろうか。
そう思って聞いたのだが、返ってきたのはにやりとした笑みだった。
「んー、私はこれから接待。オジサンたちと一杯ね」
くいっと酒をあおる仕草つきで言われて、菜摘は思わず恐縮する。
まさか仕事だとは。
「あはは、気にしないで。オジサンたちと飲むのは結構好きなのよ」
菜摘の戸惑いに気づいて、翠はからから笑いながら手を振った。見た目の印象よりさばけた気質らしい。
口紅を懐にしまうと、またヒールの音を立てて菜摘の前に立った。
「じゃ、お互いよい夜を過ごしましょうね」
ぽんと肩をたたいて出て行く背中に、菜摘はぺこりと頭を下げて見送った。
翠が去った後には、まだかすかにいい匂いが残っている。
自分の鼓動がいつもより早いことに気づいて、菜摘は一度深呼吸をした。
鏡に映った自分の顔が赤い。
さっきまでばっちりだと思っていた自分の姿が、翠を見た後ではかすんで見えるような気がする。
思わず、自分の身体を見下ろした。翠のすらりとしたスーツ姿と見比べて、一人で凹む。
菜摘とて、容姿にはそこそこ恵まれているつもりだ。
けれど、翠の美しさは、一線を画している。
――私も、せめてあと五センチ、身長があればなぁ。
一瞬よぎった考えを振り払おうと、首を横に振った。
***
嵐志が合流したのは、菜摘がカフェに到着した三十分後だった。
急いで来たのか、いつもきちんと撫で上げられている前髪が少し乱れている。
菜摘を見つけるなり、アーモンド型の目が細められた。その横に見える小さな泣きぼくろが、彼の色気を一層引き立てている。
軽く手を振る嵐志に、菜摘も手を振り返した。早足になる鼓動をなだめつつつ、ゆっくり立ち上がる。
近づいて来る嵐志の歩調に合わせて、気分は高まっていく。
嵐志とふたりで出かけるのは、今でもまだ夢のようだ。特にこうして待ち合わせるときには、まるでお姫様になったようなふわふわした気分になる。
「ごめんね、遅くなって。……できるだけ早く切り上げたんだけど」
どれくらい待った? と、嵐志は気遣うように腕時計と菜摘の顔を見比べる。菜摘はかぶりを振った。
「気にしてません。お仕事、お疲れさまです」
ぺこりと頭を下げると、嵐志ははにかむような笑顔を浮かべた。
机の上に乗ったコーヒーカップにちらりと目をやり、菜摘に微笑む。
「コーヒー、もういい? ……行こうか」
「はい」
菜摘が飲み干していたコップをさっと手にすると、カウンターへ持って行ってくれた。
ありがとうございます、と声をかけると、どういたしましてと笑顔が降ってくる。
歩く横で揺れる手。
――勝手に触れてよいものか。
嵐志の横顔とその手を見比べる菜摘に気づいたのか、嵐志はすっと手を伸ばしてくれた。
おずおずと指を触れると、嵐志は指を絡め、ぎゅっと握り返してくる。
それだけで満たされたような気持ちになって、自然と口元が弛んだ。
「――今日の店、行ったことある? 普段、食事っていったら、男どもと行くくらいだから。女性が好きそうな店ってあんまり思い当たらなくて」
これからはもう少し気にしてみるね、と笑う嵐志に、菜摘も微笑んだ。
「いえ、私はどこでも! ラーメンでもうどんでも焼き肉でも、全然大丈夫です!」
ラーメンや焼き肉はむしろ大好物だ。気が向くと光治を連行しているのだが、嵐志は社交辞令と取ったのだろう。「そりゃありがたいな」と笑って前を向いた。
菜摘も黙ってついていく。
百八十センチを超える嵐志と、百五十五センチの菜摘が並ぶと、どうしても会話が途切れがちになる。屈んでもらうのは申し訳ないし、かといって大声を出すのも憚られて、歩く間はいつも言葉少なになりがちだ。
それでも、手をつないで歩く時間はくすぐったい幸せに満ちている。
「店は向こう口だから。エスカレーターで行こうか」
嵐志は昇りのエスカレーターに菜摘を促した。
一段下に嵐志が立つと、身長差は十センチくらいにまで縮む。
後ろを見ると、いつもより近くに嵐志の顔があって、菜摘は思わずうろたえた。黙っているのも気まずくて、何か話題を、と思いついたのは、翠のことだ。
「あ、あの。会社を出る前、百合岡さんとばったり会って」
「翠と? フロア違うのに?」
「一階の……化粧室で。百合岡さんはこれから接待だそうで……」
ファーストネーム呼びに一瞬怯んだが、嵐志の話し方は淡々としている。
社長秘書の翠と、営業の嵐志は、年齢が近いこともありよくタッグを組んで仕事をしているらしい。
実はつき合っているんじゃないか、などとも言われているようだけれど、これは当人たちに聞いたわけではないので信じないことにしている。
「秘書さんは大変ですね。おじさんたちと接待があって」
菜摘の言葉に、嵐志は笑った。
「あいつ、そういうの平気だから。翠ちゃん翠ちゃんってチヤホヤされるの、嫌じゃないんだって」
「そ、そうなんですか……」
やっぱり、聞くからに親しげな口ぶりだ。
ただ思いついたから口にした話題だったが、やぶ蛇だったかもしれない。
恋人という噂が本当かどうか分からないが、嵐志と並ぶなら、ちびの菜摘などより翠の方がよっぽどお似合いだと思う。
身長だけじゃなく、色気の点でも、年齢の面でも。
そう思うと気分が沈んだ。
「……どうかした?」
ふわっと、髪に吐息がかかって、我に返った。
嵐志がまっすぐに菜摘を見ている。
間近にある端正な顔に、頬が熱を持った。
「あ、あのっ、何でも無いですっ」
「ほんと? なら、いいけど――あっ、危ない」
エスカレーターが上のフロアに着いたことに気づかず、たたらを踏んだ菜摘を嵐志が支えた。「す、すみませんっ」と慌てる菜摘に、嵐志が顔を寄せる。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫、です」
すみません、とまた菜摘が謝ると、嵐志は微笑みながら手を離した。
「……軽いね」
「そ、そんなことないです」
「あと、柔らかい」
嵐志は目を細めながら菜摘の手を取った。真っ赤になってうつむく菜摘に、小さな呟きが降ってくる。
「ずっと抱きしめてたくなるくらいだ」
――それなら、一晩でも二晩でも!
喉元まで出かかって、菜摘はぐっと飲み込んだ。
確かに、今日こそはと決心はしてきた。
けれど、嵐志に引かれたらそれでオシマイなのだ。
――落ち着くのよ菜摘……落ち着いて、ここぞっていうときを待つのよ……!
自分にそう言い聞かせ、「そのとき」を待つ菜摘だった。