紅い月
翌朝。

 ルシアンは一枚の古びた紙を机の上に置いた。

「……これで全部?」

「ギルドに残ってる資料はね」

 ノアが答える。

「人間、魔族、精霊、それから過去に確認された特殊な種族。全部調べた」

「該当するものは?」

「ない」

 短い沈黙。

 ルシアンは紙をめくった。

 人間。

 魔族。

 妖精。

 精霊。

 獣人。

 どれにも少女は当てはまらない。

「おかしいね」

 ノアが椅子に腰を下ろす。

「この世界に存在する種族なら、何かしら記録があるはずなんだけど」

「記録がないだけかもしれない」

「それなら――」

 ノアが一枚の紙を指で叩く。

「ずっと昔に絶滅した種族か、そもそも記録に残ってない存在ってことになる」

「……」

「どっちにしても面白いね」

「面白がるな」

「だって気になるじゃん」

 ノアは笑った。

「俺、こういう分からないもの好きなんだよね」

「知っている」

「でしょ?」

     *

 昼。

 ギルドの魔術師が少女の部屋へ呼ばれた。

「では、失礼します」

 魔術師が少女の手を取る。

 マナを流す。

 淡い光が少女の身体を包んだ。

「……」

 数秒。

 十秒。

 魔術師の表情が変わった。

「どうした」

 ルシアンが問う。

「……流れません」

「何が?」

 ノアが横から覗き込む。

「マナが、です」

 魔術師はもう一度試す。

 結果は同じ。

「この方の身体にマナは存在します」

「なら使えるんだな」

「いえ」

 魔術師が首を振る。

「そういう意味ではありません」

「じゃあ何?」

「……まるで」

 魔術師は言葉を探した。

「この方のマナだけ、私たちとは違う場所にあるような……」

 ノアの表情が変わった。

「昨日と同じこと言ってるね」

「え?」

「なんでもない」

 魔術師は困惑したまま少女から手を離した。

「私には、これ以上分かりません」

 そして一言。

「この方を無理に起こすのは、やめた方がいいと思います」

「理由は?」

「分かりません」

「……」

「ただ、起こしてはいけないような気がします」

 ノアがルシアンを見る。

 ルシアンも何も言わない。

     *

 その夜。

 少女は夢を見ていた。

 ――真っ暗だった。

 何もない。

 音もない。

 自分がどこにいるのかも分からない。

 ただ、誰かの手を握っている。

 小さな手。

 温かい。

「大丈夫」

 誰かが言った。

 女の人の声。

「あなたは何も悪くない」

「……誰?」

 少女が尋ねる。

 けれど、自分の声が聞こえない。

 握っていた手が離れる。

「待って」

 走る。

 追いかける。

 でも、その人はどんどん遠ざかっていく。

「待って……!」

 少女が手を伸ばした瞬間――

 赤い。

 視界いっぱいに、赤。

 血。

 誰かが倒れている。

 自分の手にも血がついている。

「違う……」

 少女は首を振る。

「私じゃない」

 誰かが泣いている。

 誰かが叫んでいる。

 そして――

 聞き覚えのない声がする。

『この子を封じろ』

「……!」

『この力を、二度と使わせるな』

 少女の胸が痛む。

『記憶も全部――』

 そこで、声が途切れた。

 暗闇。

 何もない。

 少女は一人になる。

「……いや」

 初めて、自分の声が聞こえた。

「いや……」

 怖い。

 何が起きたのか分からない。

 それなのに。

 ひとつだけ分かる。

 ――逃げなければ。

「逃げなきゃ……」

 少女が走る。

 どこまでも。

 どこまでも。

 森の中を。

 そして――

 巨大な樹の前に辿り着く。

 そこには、誰かが立っていた。

 顔が見えない。

「ここなら大丈夫」

 その人が言う。

「ここで眠れば、全部忘れられる」

「……全部?」

「そう」

 優しい声だった。

「目が覚めたときには、何も知らないあなたになっている」

「それで……いいの?」

「それが一番いい」

 少女は泣いていた。

「……怖い」

「大丈夫」

 誰かの手が、少女の頬に触れる。

「いつか――」

 声が遠ざかる。

「あなた自身が、自分の答えを見つけるから」

 ――そこで、夢が途切れた。

     *

「……っ」

 少女の指が動いた。

 閉じた瞼の奥で、青い瞳が揺れる。

 そして。

 ほんの一瞬だけ――

 部屋の中に、青白い光が広がった。

 窓辺の花が、一斉に開く。

 少女の唇が動く。

「……ル……」

 声にはならなかった。

 けれど。

 ベッドのすぐそばに置かれていた花が、少女へ向かってゆっくりと傾いた。

 少女は再び眠りへ落ちる。

 まだ、誰も知らない。

 彼女が何を忘れたのか。

 誰が彼女を眠らせたのか。

 そして――

 なぜ彼女の記憶の中に、**「力を封じろ」**という言葉が残されているのか。

 ただ一つ。

 少女の眠りは、少しずつ浅くなっていた。
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