紅い月
目覚め
遠くで、誰かの声がする。
「……おい」
低く、静かな声だった。
少女の意識は、深い水の底からゆっくりと浮かび上がっていく。
温かい。
身体を包む布団のぬくもり。
微かに感じる、薪の燃える匂い。
ぱち、と小さく火が爆ぜる音。
けれど――
ここがどこなのかは分からない。
少女は重たい瞼をゆっくりと開いた。
ぼんやりとした視界に、見知らぬ天井が映る。
白い天井。
木で作られた梁。
壁際には小さな暖炉があり、その中で赤い炎が静かに揺れていた。
「……ここ……」
声が、ひどく掠れていた。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
少女はゆっくりと身体を起こそうとする。
しかし――
「……っ」
全身に力が入らない。
肩がわずかに揺れた。
その瞬間、すぐ隣から手が伸びてきた。
「無理をするな」
少女の身体が止まる。
恐る恐る顔を向ける。
そこに、一人の男がいた。
黒い髪。
夜のように暗い瞳。
整った顔立ちをしているのに、近寄りがたいほどの静かな威圧感がある。
男はベッドの傍に置かれた椅子に座っていた。
まるで、少女が目を覚ますのをずっと待っていたかのように。
少女は、その男から目を離せなかった。
怖い。
そう思った。
けれど、不思議だった。
なぜか、この男が自分を傷つけることはないような気がした。
「……あなたは……?」
少女が小さく尋ねる。
男は少しだけ目を細めた。
「ルシアン」
短い返答。
少女はその名前を頭の中で繰り返した。
ルシアン。
知らない。
当然、知らないはずなのに――
なぜか、その名前だけが妙に耳に残った。
少女は視線を落とす。
白いシーツの上に置かれた、自分の手。
細く、青白い指。
見慣れた手のはずなのに。
まるで、自分のものではないように感じる。
「……私は……」
言葉がそこで途切れた。
何かを尋ねようとした。
けれど、その先が出てこない。
名前。
自分の名前が――
分からない。
少女の瞳が揺れた。
「……私の、名前……」
小さく呟く。
「……なんでしたっけ……?」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、少女をじっと見つめている。
その沈黙が、かえって怖かった。
少女が俯いた、そのとき。
――コン、コン。
扉が二度叩かれた。
「ルシアン、起きてるか?」
男の声。
ルシアンが視線だけを扉へ向ける。
「入れ」
扉が開いた。
入ってきたのは、ルシアンとはまた違う雰囲気の男だった。
柔らかな茶色の髪。
穏やかそうに見える瞳。
けれど、その目は部屋に入った瞬間、少女を捉えていた。
「……」
ノアの足が止まる。
少女と視線が重なる。
ほんの数秒。
誰も何も言わなかった。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
やがてノアが、小さく息を吐いた。
「……目を覚ましたのか」
少女は返事をしなかった。
知らない場所。
知らない男が二人。
それなのに、なぜかこの部屋だけは――
怖いほど静かで、妙に温かかった。
「……ここは、どこですか?」
少女が尋ねる。
今度はノアが答えた。
「俺たちの屋敷だ」
「……屋敷……?」
「君は森の中で倒れていたんだ」
「森……」
少女はその言葉を聞いた瞬間、眉を寄せた。
頭の奥が、かすかに痛む。
何かが浮かびそうになる。
暗い森。
冷たい空気。
誰かの手。
そして――
「……っ」
少女は突然、胸元を押さえた。
「どうした?」
ノアが一歩近づく。
けれど少女は答えられない。
頭の中に、一瞬だけ浮かんだ言葉。
それは声ではなかった。
記憶でもない。
ただ、自分の奥底に刻み込まれているような――
――力を封じる。
「……今……」
少女は震える指先を見つめた。
「何か……思い出しそうだったんです」
ルシアンの瞳が、初めて僅かに揺れた。
「何を?」
「……分かりません」
少女は首を横に振った。
「何も……思い出せない……」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
ノアは何も言わず、少女を見つめる。
そして、ルシアンへ視線を向けた。
短い視線のやり取り。
言葉はない。
けれど、二人の間では何かが伝わったようだった。
やがてルシアンが立ち上がる。
長い影が、少女のいるベッドへ落ちた。
「……なら、無理に思い出す必要はない」
少女が顔を上げる。
ルシアンは淡々と続けた。
「思い出すまで、ここにいればいい」
「……ここに?」
「ああ」
それだけだった。
けれど少女は、その言葉を聞いた瞬間――
なぜか、胸の奥が少しだけ温かくなった。
自分が誰なのかも分からない。
どこから来たのかも分からない。
それでも。
少なくとも今は、この場所にいていいらしい。
少女は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
ルシアンは返事をしなかった。
ただ、ほんの僅かに目を細めた。
暖炉の炎が揺れる。
その赤い光が、少女の銀色の髪を淡く照らしていた。
「……おい」
低く、静かな声だった。
少女の意識は、深い水の底からゆっくりと浮かび上がっていく。
温かい。
身体を包む布団のぬくもり。
微かに感じる、薪の燃える匂い。
ぱち、と小さく火が爆ぜる音。
けれど――
ここがどこなのかは分からない。
少女は重たい瞼をゆっくりと開いた。
ぼんやりとした視界に、見知らぬ天井が映る。
白い天井。
木で作られた梁。
壁際には小さな暖炉があり、その中で赤い炎が静かに揺れていた。
「……ここ……」
声が、ひどく掠れていた。
自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
少女はゆっくりと身体を起こそうとする。
しかし――
「……っ」
全身に力が入らない。
肩がわずかに揺れた。
その瞬間、すぐ隣から手が伸びてきた。
「無理をするな」
少女の身体が止まる。
恐る恐る顔を向ける。
そこに、一人の男がいた。
黒い髪。
夜のように暗い瞳。
整った顔立ちをしているのに、近寄りがたいほどの静かな威圧感がある。
男はベッドの傍に置かれた椅子に座っていた。
まるで、少女が目を覚ますのをずっと待っていたかのように。
少女は、その男から目を離せなかった。
怖い。
そう思った。
けれど、不思議だった。
なぜか、この男が自分を傷つけることはないような気がした。
「……あなたは……?」
少女が小さく尋ねる。
男は少しだけ目を細めた。
「ルシアン」
短い返答。
少女はその名前を頭の中で繰り返した。
ルシアン。
知らない。
当然、知らないはずなのに――
なぜか、その名前だけが妙に耳に残った。
少女は視線を落とす。
白いシーツの上に置かれた、自分の手。
細く、青白い指。
見慣れた手のはずなのに。
まるで、自分のものではないように感じる。
「……私は……」
言葉がそこで途切れた。
何かを尋ねようとした。
けれど、その先が出てこない。
名前。
自分の名前が――
分からない。
少女の瞳が揺れた。
「……私の、名前……」
小さく呟く。
「……なんでしたっけ……?」
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、少女をじっと見つめている。
その沈黙が、かえって怖かった。
少女が俯いた、そのとき。
――コン、コン。
扉が二度叩かれた。
「ルシアン、起きてるか?」
男の声。
ルシアンが視線だけを扉へ向ける。
「入れ」
扉が開いた。
入ってきたのは、ルシアンとはまた違う雰囲気の男だった。
柔らかな茶色の髪。
穏やかそうに見える瞳。
けれど、その目は部屋に入った瞬間、少女を捉えていた。
「……」
ノアの足が止まる。
少女と視線が重なる。
ほんの数秒。
誰も何も言わなかった。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。
やがてノアが、小さく息を吐いた。
「……目を覚ましたのか」
少女は返事をしなかった。
知らない場所。
知らない男が二人。
それなのに、なぜかこの部屋だけは――
怖いほど静かで、妙に温かかった。
「……ここは、どこですか?」
少女が尋ねる。
今度はノアが答えた。
「俺たちの屋敷だ」
「……屋敷……?」
「君は森の中で倒れていたんだ」
「森……」
少女はその言葉を聞いた瞬間、眉を寄せた。
頭の奥が、かすかに痛む。
何かが浮かびそうになる。
暗い森。
冷たい空気。
誰かの手。
そして――
「……っ」
少女は突然、胸元を押さえた。
「どうした?」
ノアが一歩近づく。
けれど少女は答えられない。
頭の中に、一瞬だけ浮かんだ言葉。
それは声ではなかった。
記憶でもない。
ただ、自分の奥底に刻み込まれているような――
――力を封じる。
「……今……」
少女は震える指先を見つめた。
「何か……思い出しそうだったんです」
ルシアンの瞳が、初めて僅かに揺れた。
「何を?」
「……分かりません」
少女は首を横に振った。
「何も……思い出せない……」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
ノアは何も言わず、少女を見つめる。
そして、ルシアンへ視線を向けた。
短い視線のやり取り。
言葉はない。
けれど、二人の間では何かが伝わったようだった。
やがてルシアンが立ち上がる。
長い影が、少女のいるベッドへ落ちた。
「……なら、無理に思い出す必要はない」
少女が顔を上げる。
ルシアンは淡々と続けた。
「思い出すまで、ここにいればいい」
「……ここに?」
「ああ」
それだけだった。
けれど少女は、その言葉を聞いた瞬間――
なぜか、胸の奥が少しだけ温かくなった。
自分が誰なのかも分からない。
どこから来たのかも分からない。
それでも。
少なくとも今は、この場所にいていいらしい。
少女は小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
ルシアンは返事をしなかった。
ただ、ほんの僅かに目を細めた。
暖炉の炎が揺れる。
その赤い光が、少女の銀色の髪を淡く照らしていた。