紅い月
少女が目を覚ましてから、三日が経った。

窓の外では、朝の霧がまだ森を覆っている。

少女はベッドの上に座り、ぼんやりと外を眺めていた。

目を覚ましてから何度も記憶を辿ろうとした。

けれど――何も思い出せない。

自分の名前。

住んでいた場所。

家族。

友人。

何ひとつ。

ただ、時折胸の奥に浮かぶ言葉だけがある。

――力を封じる。

それが何を意味するのかも分からない。

少女は自分の手のひらを見つめた。

細く白い指。

どこにでもある、普通の手。

「……力なんて、どこにあるんだろう」

小さく呟いた、そのとき。

コンコン。

扉が二度叩かれた。

「入るぞ」

聞き覚えのある声。

「はい」

扉が開く。

入ってきたのはノアだった。

手には朝食の載ったトレイがある。

「今日は少し食べられそうか?」

「……はい」

少女が頷くと、ノアはテーブルへ料理を並べていった。

温かいスープに、焼きたてのパン。

それから、切り分けられた果物。

ここ三日、毎朝こうしてノアが食事を運んできている。

食事だけではない。

着替えを用意したり、必要なものを揃えたり、体調を確認したり。

少女は、申し訳なさそうにノアを見つめた。

「……ノアさん」

「ん?」

「私のために……すみません」

「何が?」

「毎日、こんなに……」

ノアは一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。

「気にするな」

「でも……」

「ルシアンが連れてきたんだ。放っておくわけにもいかないだろ」

「……ルシアンさん」

その名前を口にすると、少女の胸の奥が少しだけ揺れた。

あの黒髪の男。

初めて目を覚ましたとき、すぐそばにいた人。

怖いと思った。

けれど、不思議と嫌ではなかった。

「今日はルシアンさんは?」

「朝から仕事だ」

「……そうですか」

少女は窓の外へ視線を向けた。

その横顔を見ながら、ノアは何も言わなかった。

――その日の夕方。

屋敷の中が静かになった頃。

ノアは書斎の扉を開けた。

「ルシアン」

机に向かっていたルシアンが顔を上げる。

「どうだった?」

「今のところ問題ない」

ノアはそう言ってから、少し考えるように眉を寄せた。

「ただ……」

「何だ」

「このまま俺が全部世話をするのは無理がある」

ルシアンは黙ってノアを見る。

「朝から晩まであの部屋にいるわけにもいかないだろ。俺にはギルドの仕事もある」

「……そうだな」

ルシアンも分かっていた。

少女を守るためには、誰かが身の回りの世話をする必要がある。

だが、ギルドの人間を関わらせるわけにはいかない。

少女の存在は、まだ誰にも知られてはいけない。

しばらくの沈黙のあと、ルシアンが口を開いた。

「エレナを呼べ」

ノアが顔を上げる。

「……エレナを?」

「ああ」

「本気か?」

「他に適任がいるか?」

ノアは少し考えた。

エレナ。

この屋敷の管理を任せている女性。

ギルドの仕事には一切関わらず、長年ルシアンに仕えてきた。

何より、口が堅い。

「……確かに、あいつなら大丈夫だな」

「そういうことだ」

「でも、少女のことを知る人間が一人増えるぞ」

ルシアンは窓の外へ視線を向けた。

「それでも必要だ」

短い言葉だった。

ノアはしばらくルシアンを見つめる。

そして小さく息を吐いた。

「分かった。俺から話しておく」

「ああ」

それだけ言うと、ルシアンは再び机の上の書類へ視線を落とした。

その頃――

少女は、自分の部屋で一人、窓の外を眺めていた。

夕暮れの森。

木々の向こうへ沈んでいく太陽が、空を淡い橙色に染めている。

少女は胸元に手を当てた。

ここへ来て三日。

何も思い出せない。

それでも――

この場所にいることへの恐怖は、少しずつ薄れていた。

「……明日も、ここにいていいのかな」

誰に聞くでもなく、少女は呟いた。

静かな部屋に、その声だけが消えていく。
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