紅い月
翌朝。

少女が目を覚ますと、いつもと少し違う気配を感じた。

扉の向こうに、人の気配がある。

コンコン。

「失礼いたします」

少女が返事をするより先に、扉が静かに開いた。

そこに立っていたのは、一人の女性だった。

落ち着いた色の髪を後ろでまとめ、黒いワンピースに白いエプロンを身につけている。

女性は少女を見ると、柔らかく微笑んだ。

「おはようございます」

「……おはようございます」

少女も小さく頭を下げる。

女性は部屋へ入り、静かに扉を閉めた。

「初めまして。エレナと申します」

「エレナ……さん」

「はい。本日から、こちらであなたのお世話をさせていただきます」

少女は少し戸惑った。

「私の……お世話を?」

「ええ」

エレナは穏やかに頷いた。

「ノア様から、あなたのことを伺っております」

「ノアさんから……」

「はい。まだお身体も本調子ではないと」

少女は申し訳なさそうに視線を落とした。

「……私のせいで、ノアさんにも迷惑をかけてしまって」

するとエレナは、少しだけ首を横に振った。

「ノア様だけではありませんよ」

「……え?」

「あなたをここへ連れてきたのは、ルシアン様ですから」

少女は顔を上げた。

「……ルシアンさん」

「はい」

その名前を聞いた途端、少女の頭に、初めて目を覚ましたときの光景が浮かんだ。

ベッドの傍に座っていた黒髪の男。

低く落ち着いた声。

そして、自分を支えてくれた手。

「ルシアンさんにも……迷惑をかけているんでしょうか」

「迷惑、ですか?」

エレナは少し驚いたように目を瞬かせた。

「ルシアン様は、あなたを森から連れて帰られたのですよ」

「……はい」

「でしたら、少なくとも今のあなたを迷惑だと思っているようには見えません」

少女は黙った。

エレナはそんな少女を見つめ、それ以上は踏み込まなかった。

「ですから、あまりお気になさらなくて大丈夫ですよ」

「……でも」

「ここにいる間くらい、誰かに甘えてもよろしいのではありませんか?」

少女は目を伏せた。

甘える。

そんなことをしていいのだろうか。

自分には何もない。

名前さえ思い出せない。

それなのに、こうして温かな部屋を与えられ、食事まで用意してもらっている。

「……ありがとうございます」

小さな声だった。

「どういたしまして」

エレナは微笑んだ。

そして、部屋の隅に置かれていた衣服へ目を向ける。

「それから、着替えをいくつか用意してあります」

「私のために?」

「はい。今お召しになっているものも、長く着ていらっしゃいますから」

少女は自分の服を見下ろした。

森で倒れていたときのもの。

ところどころ汚れてはいるものの、破れてはいない。

「……この服、どこから?」

「ルシアン様が見つけたときから、そのままだそうです」

「……そうなんですね」

少女は服の裾を指先でつまんだ。

やはり、何も思い出せない。

エレナはそんな少女を急かすことなく、用意した服をベッドの脇へ置いた。

「まずは朝食にいたしましょうか」

「はい」

エレナがテーブルへ向かう。

そこには温かなスープとパン、それから果物が並べられていた。

少女は椅子に腰を下ろす。

「いただきます」

スープを一口。

身体の中に温かさが広がる。

「……美味しいです」

「それはよかった」

エレナが嬉しそうに微笑む。

少女もつられるように、小さく笑った。

しばらく二人で静かに食事をする。

不思議と、気まずさはなかった。

食事を終える頃には、少女の表情から朝の緊張が少しだけ消えていた。

「エレナさん」

「はい?」

「これから……よろしくお願いします」

エレナは優しく微笑んだ。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

少女はもう一度、小さく頭を下げた。

新しい朝は、静かに始まった。
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