モテ男とデキ女の奥手な恋
書店でセンター対策の問題集をぱらぱらと繰りながら、俺は不思議な感覚にとらわれていた。
大学受験のとき、十七歳の俺は、国内トップ校であるT大を受けないーー結果として、落ちるという経験もしないで済むーーという選択をした。それによって、まだ上を狙えたかもしれないという自分への期待を残しておくことを選んだのかもしれない。
かもしれない、というよりは、そうだったのだと、今にして気づいた。
弟の隼人があっさりとーー俺にはそう見えたーーそのハードルをクリアしたときの、何とも言えない気持ちを思い出す。
ーー俺も、行けたかもしれない。けど、挑戦しなかった。
挑戦すればよかったかどうかは、そのときも今も分からない。分からないが、弟への劣等感はそこからほとんど諦めへと変わった。人柄、学歴、全てが俺より優れていると思わされる男ーーそれも、自分と似た容姿だからこそたちが悪い。しかも、年の離れた可愛い弟だから、より一層たちが悪い。
もともと遊びの一環としか思っていなかった恋愛に対して、更に面倒くさく感じるようになったのも、ちょうど隼人の大学が決まった頃だ。長男のプレッシャーなど感じず、ただ自分がこうと思う生き方をしていけることへの羨ましさ。その弟が俺を上回ったと感じたとき、転じて自分への失望になった。
ーーもう、俺が期待を背負う必要はないんじゃないか。
その頃には姉も結婚していた。俺も一応は定職についていたので、親の臑をかじることはないだけでも良しとしてもらおう。
不完全な俺と比べて、隼人は完成品に見えた。そうなれば、周囲が知らず知らずに長男の俺にかけていた親や周りから背負っていた期待を、隼人に譲ってやりたくもなるーー実際には半ばそうなっていた。
それでも、幼い時から背負い続けたプレッシャーは、俺を自由にさせてはくれない。
道楽息子を気取ったつもりで、脳裏を過る体面に苦しめられる。それでもそんな自分に気づかない振りをしていた。
投げやりになっていた、と言われればそうとしか言えない。自分の生き様について。
ぼんやりしていたとき、スーツのジャケットでスマホが震えた。少し残業をして帰ると言う橘を待っていたのだ。今ではすっかり互いの家を行き来している。大概俺の家だが。本当は橘の家を引き払わせたいのだが、バタバタしていてなかなか手が着かない。
【今終わったよー。疲れたぁ】
橘からのメッセージに微笑む。
問題集を棚にしまいかけ、ふと思い立ってT大の過去問集を手に取る。
まるで小説を読むかのように、それをリビングのソファで読んでいた弟の姿を思い出す。
少し離れて、N女子大学のそれも見つけた。
部屋が寒いからと勉強道具一式を持って食卓に座り、細かい字で何かを書き込む姉の姿も思い出した。
そんな努力や挑戦は、俺にはできない。尊敬している。
そう、口にするのは簡単なことだった。簡単すぎて自分の本心を忘れてしまうくらいに。
ーーもしかしたら、これはこれで、チャンスなのかもしれない。
自分に自信を取り戻すための。やるだけやったと晴れやかに笑うための。
橘の父は聞いた。本気か、と。
本気になったことなど、小さい時に姉と空手をやったときか、姉も弟も無関係なバスケに精を出したときくらいしか思い浮かばない。空手は早々に姉が上達したのでつまらなくなって放棄したことを思うと、バスケだけしかないのかもしれない。
そう考えれば、俺は本気になるということに不慣れなのだ。だから橘との関係についても、自分の気持ちが薄々分かっていながらなかなか踏み出せなかった。自分の躊躇いが橘を傷つけることになるんじゃないかと怖かったのも正直な気持ちだ。
俺は嘆息して手にした過去問をまた棚にしまった。そろそろ橘が来る頃だろう。書店を出ると、駅前を過ぎゆく人々はほとんどコートを着ずに歩いている。ぼちぼち梅雨に入る頃だ。そういえば、橘の誕生日は六月だったと聞いたように思うが、案の定日にちまでは忘れている。
「お待たせ」
橘は急いで来たらしい。やや肩で息をしながらこちらに近づいてきた。
「本立ち読みしてた」
「何の本?」
「センターの過去問」
橘は途端に眉を寄せて肩を落とした。
「……ほんと、ごめんね」
売り言葉に買い言葉、を地で行った橘家での挨拶に、本人も一応反省しているらしい。
「まあ、八方塞がりよりかはマシだと思っておくよ」
俺は言って、意地悪な笑みを浮かべた。
「何年かかるか分かんねぇけどーーお前はそんなに待てないんだっけ?」
「待ちます。……ていうか、結婚するなら神崎以外ありえない」
俺の問いに小声で答える。その橘の頭に手を置いた。
「なら、その呼び方改めなきゃな」
ついつい習慣で、互いに苗字呼びしているが、いずれは同じ姓になるのだ。
そう思って、ふと気づく。
「そういや、俺たちの場合、名字どっちにするんだろうな」
「……へ?」
橘が間の抜けた声をあげて俺を見た。俺はその反応に首を傾げつつ、
「お前、一人娘だろ。うちは隼人が神崎姓にするらしいから、俺はこだわらないけど」
「……あんたって」
橘は言葉を失っていたが、
「おもしろいなぁ、神崎は」
急に面白そうに笑いはじめた。かと思うと少し考えるような仕草を見せ、
「その話、本気なら……形勢逆転、するかもよ」
橘の目がきらりと光った。
大学受験のとき、十七歳の俺は、国内トップ校であるT大を受けないーー結果として、落ちるという経験もしないで済むーーという選択をした。それによって、まだ上を狙えたかもしれないという自分への期待を残しておくことを選んだのかもしれない。
かもしれない、というよりは、そうだったのだと、今にして気づいた。
弟の隼人があっさりとーー俺にはそう見えたーーそのハードルをクリアしたときの、何とも言えない気持ちを思い出す。
ーー俺も、行けたかもしれない。けど、挑戦しなかった。
挑戦すればよかったかどうかは、そのときも今も分からない。分からないが、弟への劣等感はそこからほとんど諦めへと変わった。人柄、学歴、全てが俺より優れていると思わされる男ーーそれも、自分と似た容姿だからこそたちが悪い。しかも、年の離れた可愛い弟だから、より一層たちが悪い。
もともと遊びの一環としか思っていなかった恋愛に対して、更に面倒くさく感じるようになったのも、ちょうど隼人の大学が決まった頃だ。長男のプレッシャーなど感じず、ただ自分がこうと思う生き方をしていけることへの羨ましさ。その弟が俺を上回ったと感じたとき、転じて自分への失望になった。
ーーもう、俺が期待を背負う必要はないんじゃないか。
その頃には姉も結婚していた。俺も一応は定職についていたので、親の臑をかじることはないだけでも良しとしてもらおう。
不完全な俺と比べて、隼人は完成品に見えた。そうなれば、周囲が知らず知らずに長男の俺にかけていた親や周りから背負っていた期待を、隼人に譲ってやりたくもなるーー実際には半ばそうなっていた。
それでも、幼い時から背負い続けたプレッシャーは、俺を自由にさせてはくれない。
道楽息子を気取ったつもりで、脳裏を過る体面に苦しめられる。それでもそんな自分に気づかない振りをしていた。
投げやりになっていた、と言われればそうとしか言えない。自分の生き様について。
ぼんやりしていたとき、スーツのジャケットでスマホが震えた。少し残業をして帰ると言う橘を待っていたのだ。今ではすっかり互いの家を行き来している。大概俺の家だが。本当は橘の家を引き払わせたいのだが、バタバタしていてなかなか手が着かない。
【今終わったよー。疲れたぁ】
橘からのメッセージに微笑む。
問題集を棚にしまいかけ、ふと思い立ってT大の過去問集を手に取る。
まるで小説を読むかのように、それをリビングのソファで読んでいた弟の姿を思い出す。
少し離れて、N女子大学のそれも見つけた。
部屋が寒いからと勉強道具一式を持って食卓に座り、細かい字で何かを書き込む姉の姿も思い出した。
そんな努力や挑戦は、俺にはできない。尊敬している。
そう、口にするのは簡単なことだった。簡単すぎて自分の本心を忘れてしまうくらいに。
ーーもしかしたら、これはこれで、チャンスなのかもしれない。
自分に自信を取り戻すための。やるだけやったと晴れやかに笑うための。
橘の父は聞いた。本気か、と。
本気になったことなど、小さい時に姉と空手をやったときか、姉も弟も無関係なバスケに精を出したときくらいしか思い浮かばない。空手は早々に姉が上達したのでつまらなくなって放棄したことを思うと、バスケだけしかないのかもしれない。
そう考えれば、俺は本気になるということに不慣れなのだ。だから橘との関係についても、自分の気持ちが薄々分かっていながらなかなか踏み出せなかった。自分の躊躇いが橘を傷つけることになるんじゃないかと怖かったのも正直な気持ちだ。
俺は嘆息して手にした過去問をまた棚にしまった。そろそろ橘が来る頃だろう。書店を出ると、駅前を過ぎゆく人々はほとんどコートを着ずに歩いている。ぼちぼち梅雨に入る頃だ。そういえば、橘の誕生日は六月だったと聞いたように思うが、案の定日にちまでは忘れている。
「お待たせ」
橘は急いで来たらしい。やや肩で息をしながらこちらに近づいてきた。
「本立ち読みしてた」
「何の本?」
「センターの過去問」
橘は途端に眉を寄せて肩を落とした。
「……ほんと、ごめんね」
売り言葉に買い言葉、を地で行った橘家での挨拶に、本人も一応反省しているらしい。
「まあ、八方塞がりよりかはマシだと思っておくよ」
俺は言って、意地悪な笑みを浮かべた。
「何年かかるか分かんねぇけどーーお前はそんなに待てないんだっけ?」
「待ちます。……ていうか、結婚するなら神崎以外ありえない」
俺の問いに小声で答える。その橘の頭に手を置いた。
「なら、その呼び方改めなきゃな」
ついつい習慣で、互いに苗字呼びしているが、いずれは同じ姓になるのだ。
そう思って、ふと気づく。
「そういや、俺たちの場合、名字どっちにするんだろうな」
「……へ?」
橘が間の抜けた声をあげて俺を見た。俺はその反応に首を傾げつつ、
「お前、一人娘だろ。うちは隼人が神崎姓にするらしいから、俺はこだわらないけど」
「……あんたって」
橘は言葉を失っていたが、
「おもしろいなぁ、神崎は」
急に面白そうに笑いはじめた。かと思うと少し考えるような仕草を見せ、
「その話、本気なら……形勢逆転、するかもよ」
橘の目がきらりと光った。