モテ男とデキ女の奥手な恋
橘の睨んだ通り、橘姓を選択してもいい、という話は予想外のこととして義父となる人を喜ばせたらしい。
センターなんてどうでもいいとまで言われ、正式な挨拶に出かけたはずが橘家で酒盛りになった。
自分自身に全くこだわりがないので驚いたが、
「うち、女系の家系なのよね。お父さん一人だけ男で、おばさんたちもみんな女。自分の代で橘家も絶えるから、何となく申し訳ないって気にしてたの」
橘が笑うのを聞くと、そんなもんかと思わされる。隼人が神崎姓を取らなければ、俺もここまで気楽に変えるつもりにはなれなかったかもしれない。
「よかったわね。センター受けずに済んで」
俺はうーんと苦笑した。
「それはそれとして、受けようかなと」
「は?」
橘が訝し気に眉を寄せる。
「いや、ちょっと挑戦してみたいかなーという気がして」
「……ムキになってるの?」
気づかわし気な様子に首を振る。
「いや、ここ数週間そのつもりで考えてたから。ぼちぼち覚悟してやってみるか、って気になってて」
この歳で何かに挑戦することもあまりない。ジムでは身体に負荷をかけるが、精神的な負荷をかけてみるのもいいかもしれないなと思ったのだ。自分の成長のために。
「まあ、いいけど……それはそれで、結婚の準備は進めてもいい?」
「ああ、進めるつもりで」
でもセンターの後にしてくれと言うと、橘は呆れたように苦笑した。
挨拶に鎌倉の実家へ向かうと、橘は緊張で滑稽なくらいカチコチだった。
それを笑いながら指摘すると、顔を真っ赤にして憤慨する。
「普通、緊張するでしょ。そっちが珍しいのよ」
「いや、だって緊張したって何もいいことないだろ」
ほどよい緊張が一番パフォーマンスを発揮できる。とは、バスケの試合で散々経験している。
試験では百戦錬磨な橘も、それは分かっているはずなのだが、傾向と対策がはっきりしているそれとはまた話が別らしい。
「あれ?母さん、髪型変えた?」
玄関先で出迎えてくれた母を見た瞬間俺が言うと、母は嬉しそうに笑った。
「そうなの。ちょっと、パーマかけてみたのよ。やぁだぁ、やっぱり政人は気づくのね」
言って、父にちらりと目をやる。
「お父さんも隼人も気付かないのよ。この前、香子ちゃんに言われて、初めて気づいて慌ててるんだもの。まったく」
唇を尖らせる母から目をそらし、父はモゴモゴと何か言おうとしているが、俺は肩に手を添えて言外にやめておけと示した。こういう話で女に逆らうとろくなことがない。
父も元よりそれは承知しているのだろう、肩を竦めて小さくなった。
「小さいときからそう」
懐かしむような母の言葉は、橘に投げ掛けられたものらしい。
「政人は人に無関心なようで、他人をよく見てて、放っておけないたちなのよね。一見穏やかに見えて、場合によってはいくらでも人に無関心になれる隼人とは逆」
俺は驚いて母の顔を見た。そういう風に見られていたとは知らなかった。
二つ上に姉がいて、七つ下に弟がいた。俺が自分のことを自分でできるようになる頃には弟の世話にかかりきりだった母。一方で姉は一番上の子なのであれこれと気にかけていたのを見ている。
ほとんど俺のことは放ったらかしだと思春期には恨みがましく思ったこともあったが、母なりに俺のことを見ていてくれたのだと、気づかなかった母の愛情に喜びと気恥ずかしさを覚える。
それを聞いた橘がふふっと笑った。
「何?」
「いや、私もその放っておけない奴だったんだろうなって」
俺は橘の微笑みと母の横顔を見比べて、照れくささに目を反らした。
「そうかもな」
ぶっきらぼうに答えて、母と父に招き入れられる橘の後ろを追った。
見慣れた玄関口に橘の背が見えるのが不思議な気分だったが、それもいずれ自然に感じるようになるのだろう。
そう思いながら、華奢なその肩に触れる。橘が振り返った。
「なぁに?」
その穏やかな微笑に、なんでもない、と首を振る。
変なの、と橘が笑う。
ーーこの笑顔が、いつも隣にあるように。
本気で想うことが、こんなにも心を強くしてくれるのものなのか。ーー
そう気づいて微笑むと、橘は照れ臭そうに頬を染めた。
Fin


