モテ男とデキ女の奥手な恋
結局、帰社したのはほとんど定時だった。
足元が砂埃で白くなった俺を見て、阿久津が笑う。
「よお、色男。山口会長も孫経由で陥落したらしいな」
あながち間違いではないので、俺は後ろ頭を掻いた。阿久津と一緒に仕事をしているはずの桑原さんと高橋さんはデスクにいない。
阿久津の反応は思ったよりも柔らかかった。もっと敵対心丸出しで厭味の一つでも言ってくるかと思っていたので、やや拍子抜けする。
阿久津は俺の肩を叩いた。
「今日は二人で一杯行こうぜ。たまにはそういうのもいいだろ」
驚く俺に笑って、しっかし酷いな、とスラックスの裾を見る。
「軽く払ったんだけどな。クリーニングで落ちればいいけど」
「スラックス一本で面会のチャンスを買えるとは驚きだ」
「革靴一足もな」
俺はひょいと足を上げて靴を見てみる。紐を通すための穴だけでなく、革を靴底に縫い留めている穴に細かい砂が入り込んでいる。スラックス共々、新品ではなかったのが唯一の救いだ。
阿久津は来いよ、と男性用のロッカールームへ手招きした。
「作業用のパンツとシューズブラシあるから貸すよ。それじゃあんまりじゃね?」
「何、そんなもん持ってんの。阿久津さん準備いいね」
「お前みたいにモトがいいわけじゃないからな。これでもいろいろ努力してんの」
互いにリラックスして軽口をたたいているのがわかる。それまでも壁を築いていたつもりではなかったのだが。
俺はふぅんと相槌を打ちつつ、にやりとして阿久津の横顔を伺った。
「急に女のとこに泊まることになったときのためじゃなくて?」
「まあ、そういうこともーーないとは言えないな」
阿久津もにやりと返した。
阿久津のパンツを借りた俺は、汚れたスラックスを会社の近くのクリーニング屋に出し、誘われるままに飲みに向かった。
「行ってみるか?中洲の屋台」
「お、いいね」
福岡の中洲といえば、屋台が賑わう夜の街として有名である。福岡勤務になったからには一度は行ってみたかったので、俺は頷いた。
こんな前向きな気分でこいつと飲みに行くのは、就職直後の同期会以降なかったように思う。阿久津は先輩の影響で早々に“女の子と話ができる店“を覚え、俺を誘うようになったからだ。
中洲に着くと、想像以上に多くの屋台が並んでいた。寒空の下飲もうと思ったらやっぱりおでんだろう、とおでん屋に入った。
「ーー初めてだよな。二人で飲むの」
阿久津の言葉に、俺は頷いた。
「ああ。サシ飲みってキャラじゃないからな」
「お前もだろ」
言い合って笑う。
「聞こうと思ってたんだけどさ、マーシー。お前、もしかして本命できた?」
不意な阿久津の言葉に、俺は口に含んだビールを吹き出しかけた。
無理矢理飲み込むと、気管に入ってむせる。
阿久津はそんな俺を見て、出会った頃と同じような無邪気さで笑った。そう思い当たって、入社してから経過した十年の歳月を改めて感じる。
「うろたえすぎだろ」
「お前こそ、いきなりすぎだろ」
阿久津は咳込む俺の背を数度叩き、ビールジョッキに口をつけた。
「そうかぁ。マーシーもとうとう身を固めるのか」
「いや、気が早くね?なんでそこまで飛ぶの、話」
「え、お前が本気になって落ちない女とかいるの。てか、お前に興味のない女にお前から近づいたりすることあるの」
そんなん知らねぇよ。ーー初めてなんだから。
思いながら、一人頭を抱える。三十男が初恋とか。痛い。痛すぎる。
「そうじゃなくて……なんで、俺に本命ができたとか、そういうことを」
「んー」
阿久津はビールをぐいと煽った。喉仏が数度上下して、ほとんど空になったジョッキをトンと机上に置く。
「なんつーか、お前って、当たり障りない人づきあいしかしなかったじゃん。懐に入らせてくれないっつーか……」
「俺の懐に入りたかったの?」
「やめろよ気持ち悪い」
阿久津は心底嫌そうに俺を睨んだ。
よかった。そこは俺も同意できてほっとした。
「で、今は違うっての?」
「まあ、そうかな。人間ぽくなった」
「一体、人のことを何だと……」
俺が苦り切ると、阿久津は鼻で笑った。
「いけ好かない奴。敵に回す気にもならないし、放っておいても気になるから、仕方なく絡んでた」
「うわぁ。何それ。すげぇ嬉しくねぇ」
「お前だって、俺と仲良しこよしなつもりだったわけじゃないだろ」
それはそうだが。
すべて筒抜けだったのか、と俺は心中嘆息する。だったら放っておいてほしかったのにーー放っておくと気になるってか。
「今回の件、YZとシンは担当外れるってよ」
「え?そうなの?」
「ボスに言ったってよ。本社のホープの好きにさせるなら自分たちは外せ、と。俺も一緒に抜けようって誘われたけど断った」
俺は苦笑を浮かべる阿久津の横顔をのぞき見る。阿久津は自嘲気味に続けた。
「多分、俺もそうしてただろうな。前までのお前だったら」
「……そんなに違うか?俺」
阿久津は何も言わずに鼻で笑った。俺は思わず黙り込む。
「で、もしかして、社内恋愛だったりすんの?」
「……なんで」
「お前、外で隙作りそうに見えないから。元々知り合いだった奴で、ふと気が緩んだかなと」
俺は脱力した。
「なあ、阿久津」
「あん?」
「お前、俺のこといけ好かないとか言いながら、なんでそんな観察してんの」
阿久津はまた笑った。今度は自嘲気味に。
「いけ好かねぇよ。だって、何やらせても様になるし。目立つし。余裕あるし。ーーその余裕こいた顔、どうにかして歪めてやりたいって何度も思ったけどーー一方で、ほっとしてる」
「何に?」
「お前の格好悪いとこ見なくて済んで」
俺はあんぐりと口を開いたまま、コメントに戸惑った。
「……阿久津」
「何だよ」
「お前、俺に何の幻想見てんの」
思いきり嫌そうな顔で俺が問うと、阿久津は噴き出した。
「さあな。俺にも分かんねぇ」
憑き物が落ちたように軽やかに笑う阿久津の横で、俺はビールを飲み干した。喉から胃に落ちていく冷たさに眉を寄せる。
「さっみぃ」
「熱燗行くか」
「俺、苦手なんだけど。熱燗」
「身体あっためるためだ、つき合えよ」
阿久津は問答無用で熱燗を頼んだ。すぐにお猪口が二つ出てくる。
しばらくして、甘く香る熱い酒をそこに注ぐと、阿久津はそれを掲げて言った。
「橘女史とマーシーの未来に乾杯」
一つのお猪口を持った俺の手元は盛大にブレ、熱燗を思いきり机上に零した。