モテ男とデキ女の奥手な恋

 就業時間を迎えた俺は、橘の家の最寄り駅で橘と合流した。
 一週間空けていた俺の家を、換気も掃除もせずに使う気にはならなかったのだ。
 夕飯を食べ終わると、食後のコーヒーを煎れようと台所に立つ。
 食器を洗おうとエプロンを身につけた橘は、未開封のコーヒー袋を差し出した。
「これ、使って」
「未開封じゃん。開けていいの」
「うん」
 橘は目線を合わせず頷く。
「……何、照れてんだよ」
 俺は笑いながら、俯き加減のその顔を覗き込んだ。
「照れてない」
「俺と飲もうと思って買っといたんじゃないの?」
「……」
 否定も肯定もせず食器を洗い始めた頬が赤い。俺はたまらず噴き出してその頭に手を当てた。
「ありがと。楽しみだ」
 ヤカンを火にかけ、コーヒーを煎れる。
 湯を注がれたコーヒーの香りが部屋中に広がる中で、橘は深呼吸した。
「……いいにおい」
「うん」
 俺は微笑み、自分の鞄から包みを取り出す。
「土産も買ったぞ。コーヒーに合いそうなやつ」
「やったー。ありがとう」
 橘は濡れた手を拭いてエプロンを外す。
「……私とコーヒー飲みながら食べようと思って買ったってこと?」
 仕返しのつもりだろうが、首を傾げて俺の顔を覗き込むその目には少し自信がない。俺は笑った。
「そうだよ。そのつもりで買った」
 橘はほっとしたように微笑むと、俺が置いたコーヒーカップの前に座って手を合わせた。
「いただきまーす」
 コーヒーとお茶菓子を前にしての自然な微笑みは少女のようにあどけない。
 俺はその姿を見ながらコーヒーをすすった。
「……そんで」
 コーヒーを一口飲み、お土産を口にしながら、橘はもそもそと切り出した。
「こっち戻って来れることになったの?」
 無表情を装っていたが、その頬は何かを期待しているように、少しだけ赤い。
 俺は笑うのを堪えて首を横に振った。
「もーしばらくダメそうだな。取引先との話もだけど、九州支部のメンバーのプライドもあって」
「まあそりゃ、あんたがちょっと行ってぱっと解決しちゃ。ーー阿久津だって傷ついてんじゃないの」
 橘は苦笑した。俺はふぅんと頬杖をつき、橘を咎めるように半眼になる。
「橘でも阿久津の肩持つんだ」
「え?ち、違うわよ。そういうつもりじゃーー」
 焦って弁明しようとする顔を見て、俺はとうとう噴き出した。
「冗談だよ。俺もそう思う。ーーだからこそ、後よろしく、って訳に行かないだろ」
 橘はわずかに肩を落として、それもそうねと相づちを打った。
「ーーお前さ」
 改まった俺の声に、橘が肩を震わせる。俺はその様子に口元を緩めながら続けた。
「考えてること、だだ漏れすぎ。ーーそんなんで大丈夫なのか?」
「な、何が」
「仕事とかーーいろいろ」
 橘は、決して男の興味を引かない訳ではない。本人に自覚があるかはともかく。
 俺の前ではすっかり隙だらけの橘を見ていると、以前被っていた会社での仮面がなくなってしまったのではないかと心配になるのだ。
 ーーそういうユルユルなところを見せるのは、俺の前だけでいい。
 子供じみた独占欲は気恥ずかしくて、直接言葉にできない。女は言えば喜ぶのかもしれないがーー特に、橘のようなタイプは。
「あ、あんたが電話してきたりしなければ大丈夫よっ」
 言う橘の顔は真っ赤だった。俺は笑うと同時に、込み上げてくる愛しさを感じた。
「……橘」
 自分の声と思えないほど優しい声が、その名を呼ぶ。
「な、何?」
 橘の目が揺らいだのが見えた。その揺らぎが嬉しくて、つい手をさし伸ばす。手がその頬に触れると、橘が気恥ずかしそうにうろたえた。
 俺はふっと笑う。
「……可愛い」
 呟くように言うと、橘は真っ赤になった顔を俺の胸に押し付けた。
 ぐりぐりと押し付けてくる額を受け止めて笑う。
「何だよ」
「だって」
 橘は泣きそうな声で応じた。
「神崎の目が、優しいんだもん」
 ぐりぐりをやめた橘の手が、俺の背に伸びていく。
「やんなっちゃう。もう」
「優しくない方がいいってこと?」
「ちがーう」
 橘は反論しながら顔を上げたが、俺の顔を見てまた視線を泳がせた。
「神崎が優しいと」
「うん」
 俺は橘の髪を指ですきながら頷く。
「……も、もっと」
「うん」
「……すきに、なっちゃうじゃない」
 言葉はだんだんと小さくなって、橘はまた俺の胸に顔を押し付けた。
 その頭を、できるだけ優しく撫でながら、俺は囁く。
「なればいいだろ。……彩乃」
 橘は何も言わないまま、俺の背に回した腕に力を込めた。

 触れ合うだけのキスから始まった行為は、できるだけ優しく進めた。
 ーー前は、どんな風に抱いたんだっけ。
 二度も抱いておいてろくに覚えていない。あの時の俺の中で、橘と他の女はほとんどひとくくりだった。
 ーーもったいないことしたなぁ。
 恥ずかしそうに身じろぎ、俺を求める柔らかな肢体。触れ合う度に感じる互いの熱。
 ーーそれらを、あの時の俺は何とも思わずに見ていたのか。
 いや、思い返せば、面倒臭いとすら思っていたのだ。
 ことを終えて、そんなことを思いながら苦笑していると、俺の隣で横になった橘が急に口を開いた。
「びっ、くりした」
 恥ずかしそうに枕で顔を隠すその姿がまた愛しい。何が、と問うと、橘はわずかに枕をずらして俺の顔をのぞき見た。
「色気がだだ漏れよ。あんたこそ、危ないんじゃないの」
 思わぬ心配に俺が噴き出す。安心しろ、とその額を小突いた。
「お前と二人だからだよ」
「あああ、もう、何それ」
 橘がまた枕に顔を埋める。
「何で、どうしてそんな、急に溺愛キャラなわけ。甘いこと言っちゃうわけ」
 そりゃ、お前の反応が面白いからに決まってんだろ。
 とは言わずに喉の奥で笑う。枕からはみ出た橘の頭を撫でた。
「しばらく離れるからな。寂しくなってホストに入れ込みでもしたら大変だ」
「……うん」
 おいおい、多少は否定しろよ。本気で心配になるだろ。
「……ふふ」
 橘は笑って枕を横に置くと、俺の裸の胸に頬を擦り寄せた。
「……嬉しい」
 俺は何も言わずに髪を撫でる。
「一緒にいられて。ーー隣にいられて」
 本当に幸せそうに、俺に頭を預けていた。
 その様子が、あまりに穏やかでらしくないので、俺は両手で橘の髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「何すんのよー!」
 橘が唇を尖らせて頭を起こす。それでこそ橘。と俺は満足した。
 橘は髪を整えながら口を開く。
「ねぇ。どれくらいで帰って来れるかなぁ。梅雨前くらいには帰れる?」
「さぁなぁ。何かあんの?6月?」 
「私の誕生日。6月20日」
 橘は、覚えといてねと釘をさした。
 うん、多分忘れる。
 心中で答えながら、俺は気づいた。
「誕生日か。そこで32?」
「そう」
「じゃ、今の満年齢はタメか」
「えっ?」
 橘は驚いて顔を上げた。
「神崎って早生まれ?」
「うん」
「いつ?」
 問われた俺は、嫌な顔をして橘を見た。
「……笑うなよ」
「笑う?なんで?」
 俺は嘆息する。
「俺の誕生日。ーー2月14日」
 橘が咄嗟に噴き出して口元を押さえたので、俺は遠慮せずその頭を小突いた。
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