モテ男とデキ女の奥手な恋

「今日、どっか行く?せっかくだし」
「え、いいの?」
 朝食のパンを咀嚼していた橘の顔がぱっと明るくなった。
「しなきゃいけないとしたら荷造りだけど……まだ引越し先がはっきり決まった訳でもねぇし。明日の朝には向こう戻るから、それから探すよ。今日くらい遊びに行ってもいいだろ」
 決まるまでは今のウィークリーマンションにいればいい。
「ええっとね……」
 橘が首を傾げて考える。化粧もせず、部屋着のまま、髪は邪魔にならないようにゆるく後ろにくくっただけの姿。実年齢よりもずいぶんと幼く見え、仕事中の颯爽とした姿など想像もできない。
 そのリラックスした姿についつい微笑みながら、俺はコーヒーを口に運んだ。
「あ、そうだ。草履、返さなくっちゃ」
「何だよ、急に。別に急がねぇから、いいよ」
「でも、そう言っててすぐ忘れちゃう。思い出したときに返しとかなきゃ」
 橘はパンを食べ終えると、コーヒーを飲み干して手を合わせた。
「ごちそうさまでした、っと」
 いそいそと紙袋を持ってくる。
「でも、神崎に渡しても結局荷物になっちゃうのね」
「……まあ、そうだな」
 橘は笑った。
「じゃ、今日鎌倉観光するとか」
「……や、何で」
「だって、デートもできて、草履もお返しできて、一石二鳥じゃない」
 からりと笑う。
 ーー政人、連絡待ってるわよ。
 ふと年始に聞いた母の声が蘇った。俺はその声を振り払うように、ぶんぶんと首を振る。
「休日に行ったって、人混みに揉まれるだけだぞ」
 苦り切って言うが、橘は大乗り気になっている。
「仕方ないじゃない。休日ならどこ行っても人が多いのは一緒よ」
 ーーそれもそうかもしれないが。
「私、この前行ったのが初めての鎌倉だったの。 ずっと都内に住んでるのに、案外行かないもんよね。でもあの日はお茶席だけで観光できなかったから、残念だなーと思ってて。散策してみたいなぁ」
 浮き立つ気持ちを隠しもせず、橘は食器を片付ける。俺もわずかにコーヒーが残ったカップだけを手元に残して食器を渡した。橘はその食器を流しに置いて、エプロンをつける。俺が飲み終えたカップを持って隣に立つと、橘が俺の顔を下からのぞきこんだ。
「ーーね。案内してよ。だめ?」
 ーーそう言われて断れる奴がいたら見てみたいもんだ。
 俺は赤らんだ頬を隠すように後ろを向き、嘆息した。
「仕方ねぇな……。案内っつったって、一般的なところしか知らねぇぞ」
「うん、それでいいの。ーーうれしい」
 言う橘の笑顔は、本当に嬉しそうで、見たこちらが照れるほどだった。

「念のため確認だけど」
 鎌倉駅に着くと、案の定大勢の人が降りた。
 小柄な橘を庇いながら改札へ向かいつつ、俺は尋ねる。
「俺の家に行って挨拶するとか、そういうことじゃないよな」
 質問が気まずくて、顔を見れないまま問うと、橘はうろたえた。
「さ、さすがにそんなに強引じゃないよ」
 慌てながら頬を赤らめている。俺はほっとした。
「……そう、よかった」
 それなら、俺だけが一度実家に草履を届けて、身軽になったところでぶらつこう。
 そう話していたのだが、何とも間が悪いことに、出かけようとする両親に会った。
「あら、政人」
 母の俺は声を聞いた瞬間、顔から血の気が引くのを感じた。
 ーー念のため、スケジュールの確認ぐらい、しとけばよかった。
 父はともかく、日頃は日用品の買い出し以外ほとんど家から出ない母である。せいぜい、最近始めた鎌倉彫りを習いに教室に行くくらいで、駅を利用して移動する予定など早々ない。
 それが、今日は両親ともめかし込んで、駅前にいた。
「……母さん。どこか行くの」
 変にかすれた声で俺が問うと、母はにこりと笑った。
「そうなのよー。香子ちゃんと隼人とランチなの。美味しいお店見つけたから、ご一緒しませんかって誘ってくれたの」
 にこにこと言う調子には、いつもと変わったところはない。ーーそれが逆に怖い。
 俺の斜め後ろに立った橘が、うろたえているのを感じながら、俺はどうしたもんかと考えていた。
 手を繋いでる訳でもないし、他人の振りをするか。
 それにしては同時に立ち止まったところで連れだとバレているはず。
 なら、開き直って紹介するか。
 でも、当人がこんなに動揺しているのにーー
 俺が手にしていた草履の入った紙袋を、橘がさっと取った。
 俺が驚いて振り返ると、大人びた笑みを浮かべる橘が、すっと背を伸ばして立っている。
 ーーいきなりモードチェンジか。
 俺が笑いそうになる横で、橘は紙袋を手にお辞儀した。その静かな仕種に、和服での所作が透けて見える。
「神崎くんと同期の橘と申します。先日は草履をありがとうございました。お礼かたがた、お返しにと思ったのですが、急なことで驚かせてしまいすみません」
「あらそんな、ご丁寧に。政人に預けてくれてよかったのに」
「神崎くんもそう言ってくれたんですが、ひと荷物になるので申し訳なくて。とはいえご自宅まで伺うのも失礼なので、ただ鎌倉まで持って来るだけのつもりだったのですが、まさかこんなタイミングでお会いするとは……」
 橘はすみません、と頭を下げた。
 母はふふ、と笑って父を横目で見る。
「ご丁寧にありがとう。大したものではないのに、わざわざごめんなさいね」
「お母さん。そろそろ電車が」
 父が腕時計を見て母をつついた。
「ああ、そうね。政人、玄関先に置いててもらえば後でしまうから、お願いできる?」
「ああ、分かった」
「もう少し話したいけど、待合せに遅れちゃうから行くわね。橘さん、今度はゆっくりいらして。ーーできれば、事前に連絡があるとうれしいけれど」
 最後は俺に対する台詞だ。冗談まじりに俺を睨みながらの母の言葉に、父がぼやくように言った。
「お父さんもいるときにしてほしいなぁ」
 ーー知るか、そんなもん。
 俺は心中で返したが、橘は笑った。
「ありがとうございます。いずれ、機会があれば」
 両親は上機嫌に手を振って、ホームへと向かった。
 俺は一日分のエネルギーを使い果たしたような気分になって嘆息したが、橘はくすくすと笑う。
「気さくなご両親ね」
「気さくすぎて困るわ」
 やれやれと嘆息する俺に、橘はまた楽しそうに笑った。
 ーー社内にも知られ、両親にも見られ……
 知らぬ間に、本格的に外堀が埋まりつつある。
 俺の横顔を見ていた橘は、不意に口を開いた。
「気にしなくていいよ、神崎」
 どこか大人びた口調。
「外堀埋められたーとか、思ってるかもしれないけど、気にしなくても。……って言っても難しいかもしれないけど」
 橘は、くすりと笑って俺の顔をのぞき込む。
「神崎って、俺様なようで、案外、周りに流されやすいもんね」
 その目にある慈しむような優しさが、俺の目に新鮮に写った。
「……なんか」
 俺は不思議な気持ちで言った。
「年相応に大人な橘を初めて見た気がする」
「しっつれいなやつ!」
 橘が俺の肩を勢いよく叩いたが、その目は笑っていた。
 駅前の雑踏を掻き分けながら、今まで考えもしなかったことが、不意に脳裏をかすめた。
 ーー俺と、橘の、将来。
 一年後、五年後、十年後、そしていずれは迎える最期の時。
 俺たちは、どういう関係でいるんだろう。
 不思議と、離れている気はしなかった。
 離れていたいとは、思わなかった。
「橘はさ」
 言葉が口をついて出た。
「俺とずっと一緒にいたいとか、思うの?」
 結婚、という言葉は、何となく違う気がして使えなかった。
 橘は少し驚いたようだったが、ふふ、と穏やかに笑った。
「どうかなぁ。よくわかんない」
 言いながら、橘は自然に俺の手を取った。指を絡めて握りしめる。
 初めて結ぶ手なのに、それはひどく自然で、暖かく感じた。
「でも、神崎といるのは好きよ。神崎といるときの自分も、嫌いじゃない」
 繋いだ手に寄り添うように、橘が少しだけ俺に擦り寄る。
「おばあちゃんになっても、こうして隣を歩けたらーーそれはそれで、いいかもしれない」
 橘の髪の匂いが、わずかに鼻に届いた。
 人混みの中、色々な匂いの漂う中で、微かにーーでも、確かに。
 人混みの多い通りを、手をつないだまま黙って歩く。
 初めての観光なら、立ち寄ってみたい店もあっただろうに、橘は何も言わず俺の横を淡々と歩いていた。
 俺は時々繋ぐ手に力を込めたり、親指で手の甲を撫でたりした。
 そうしなければ、一緒に橘が歩いていることを忘れそうで。ーーまるでそこに、もう一人の自分がいるかのような錯覚を覚える。
 手をつないで歩くことすら苦労するような人混みに辟易した俺は、通りを抜けると人通りの少ない道へ入った。
 隣で人心地ついたようなため息が聞こえ、俺がついたものかと錯覚する。
「ほんと、すごい人。ーー毎週末、こんななの?」
 橘は苦笑していた。俺はそこに橘がいることを改めて確認して安堵する。
「だいたいは」
「そうなんだ。さすが観光地ね」
 俺は頷いた。橘が何も言わず微笑む。
「……何?」
 その微笑みが不思議と満足げだったので、俺は困惑した。
 橘は首をゆるゆると振る。
「ううん。ーー元々は、それが素なのね」
「え?」
「神崎、さっきからほとんどしゃべってない」
 俺は自覚がなかったことを指摘され、思わず口を押さえた。橘は笑う。
「無理してにこにこしたり、話さなくてもいいのよ。ーーこうして隣を歩くだけでも、私は楽しいから」
 すとんと、肩の力が抜けたような感覚に、俺は素直に驚いた。
 ーーこいつの隣なら、カッコつけずにいられる。カッコ悪い自分でも、許してやれる。
 そんなーー予感であり、確信。
 繋いだ手に、ゆるゆると力を込めた。
「橘」
「ん?」
「俺ーーお前に会えて、よかった」
 ありきたりで陳腐で、何よりこっぱずかしい台詞しか出て来ない。気持ちがうまく伝えられないもどかしさを感じたが、橘は素直に嬉しそうに微笑み、
「私も」
 俺の肩に手を添えて伸び上がると、俺の頬に軽くキスをした。
「ね、神崎。神崎がよく遊んだとことか、人混みの少ないとこ教えて」
「観光はいいのかよ」
「さっきので十分満喫した気分。ーーあ、その前に、これ置きに行こうか」
 橘は草履の入った紙袋を掲げた。俺は頷いて、つないだ手を引いて歩き出した。
 黙ったまま歩きながら、互いを包む穏やかな空気に、俺はほとんど初めての安心感を覚えていた。
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