モテ男とデキ女の奥手な恋

 2月のプレゼンを無事に突破し、本社のゴーサインを得た俺たちは、本格的に生産に向けて動き出した。
 一方、ヒカルの方も、女子バスケ部の1年が共に練習に参加するようになって、すっかり打ち解けたように見える。
 すっかり顔なじみになった少女たちは、遠慮なく絡んでくるようになった。俺もなんとなく親しみを感じるようになり、東京へ帰ることについて、ときどき頭をよぎりながら口に出せず、曖昧に日々を過ごしていた。
 4月始めの週末の昼過ぎ。ジムから徒歩で帰路についていた俺は、自転車に乗った見慣れた姿が角を曲がってくるのを見た。短い髪に長細い手足。ヒカルだ、と思って声をかけようとしたとき、狭い路地には不釣り合いなスピードで一台の車が突っ込んで来た。
 はっとして避けたのは俺だけではなかった。乗用車を避けようとしたヒカルは、壁際の水路に自転車を突っ込み、体制を崩して倒れ込んだ。
「ヒカル!」
 慌てて駆け寄ると、ヒカルは痛てて……と言いながら俺に目をやる。
「あ、神崎さん」
「あ、神崎さん、じゃねぇよ。大丈夫か」
 俺はヒカルの様子を見ながら慎重に倒れた自転車を支えた。幸い、自転車に脚が巻き込まれたりはしていないらしい。
「うん、大丈夫。でも、膝打った」
 左膝を水路の角にぶつけたらしい。ジーパンを履いているが、どうなっているか分からない。肘上も擦りむいていた。
「車にぶつかってはいないのな」
「うん、ぶつかってない。自転車大丈夫かなぁ。おばあちゃんのなんだけど」
 ヒカルをゆっくりサドルから下ろしつつ自転車を引き上げると、ハンドルがやや曲がっていた。
「まあ、お前が無事なら文句言わないだろ。歩けるか?」
「どうにか」
 支えながら水路から引き上げると、ぶつけたと言った左膝をかばうようにびっこを引きながら歩いている。
「俺の家がすぐそこだから、寄っていけ」
「え?でも」
「とりあえず傷の状態見るぞ。ここでズボン脱ぐわけに行かないだろ」
 ヒカルはそれもそうだと納得したらしい。俺も肩を貸しながら、引っ越しも面倒だと結局そのまま住んでいるウィークリーマンションへ招き入れた。
 短パンを貸して着替えさせると、膝の状態は思っていたよりも痛々しかった。本人も、ジーパンを脱いだ瞬間、うぇっと変な声を出していたくらいだ。
 砂のついたところは洗い流し、かろうじて用意してあった救急セットで応急処置をすると、俺はスマホを取り出す。
「ほれ。お前がかけろ。送って行ってやってもいいけど、まず連絡しといた方がいいだろ」
 車は持っていないが、近くにあるシェアカーに登録してある。都内では車がなくとも生活に何の支障もないが、やはりこちらでは車があった方が便利だということは身に染みて分かった。江原さんの言う通り、運転が荒いドライバーが多いのが怖いところだが。
「うん、ありがとう」
 ヒカルは素直にそれを受け取って、祖母である山口夫人に電話をかけた。
 しばらく状況説明などをしていたヒカルだったが、俺と代わるよう言われたらしく、スマホをこちらに差し出した。
「もしもし。山口さんですか」
『ああ、神崎さん。すみません、ヒカルが』
「いえ、たまたま近くにいたものですから。俺も見ていてヒヤッとしました。大事なくてよかったです」
『ほんとに、もうーー今から迎えに行きますけん。場所は?』
「ああ、もしよければお送りしますよ。病院に行くなら連れていきますが……休日診療になりますかね」
『とりあえず、怪我の様子を見てから』
 それもそうですねと応じて、一息ついたら送っていくことを告げると、俺は電話を切った。
 ヒカルはベッド脇に腰かけてほうっとしている。
 もともと家具は据置きのものばかりだし、物を増やさないように意識している。殺風景だが物珍しそうに部屋を眺める少女に声をかけた。
「落ち着いたか?何か飲むか?ーーっつってもコーヒーくらいしかねぇな」
 そもそも人を呼ぶ前提で住んでいないので仕方ない。台所に向かいながら言った俺に、ヒカルは笑って首を振った。
「ううん、いらない。大丈夫、ありがとう」
 その様子がずいぶん楽しげなのでいぶかしむと、ヒカルはまた面白そうに笑った。
「おじいちゃんもお父さんも、そんな風に進んで台所に立とうとなんてしないよ。神崎さんみたいなの、九州だと少ないかもね」
「一人暮らしなんだからしょうがないだろ」
 言いながら、ふと自問自答した。じゃあ、誰かやってくれる人がいるなら頼むのか。ーーいや、多分自分で煎れるな。例えば橘が俺より上手くサービスできるとも思えない。
 そんな自問自答を知ってか知らずかヒカルはまた笑って立ち上がろうとし、痛みに顔をしかめた。
「おい。ほんとに大丈夫か?」
「うん。骨は大丈夫そうだから大丈夫だよ」
 俺が腕を支えてやると、ヒカルは淡々と答える。
「そうか。なら、帰るか」
「うん。おばあちゃんも心配してるし」
 表情はしごく淡々としている。俺は不思議に思いながら頷いて、ヒカルを支えて車まで移動した。

 助手席にヒカルを乗せ、ハンドルの曲がった自転車をどうにか後部座席に押し込むと、車を走らせ始めた。
「今日、みんなでクレープ食べに行ってたんだよ。自転車で30分くらいのとこに、美味しいクレープ屋さんがあるって言うから」
 ヒカルは楽しげに話していた。実際楽しかったのかもしれないが、短パンから覗く傷口が痛々しい。
「よかったな。すっかりみんなと仲良くなって」
「うん、ありがとう。神崎さんのおかげだと思う」
 ヒカルはずいぶんと素直で、俺もなんとなく拍子抜けした。
「お前が素直だと調子狂うな」
「何それ。僕、あまのじゃくなつもりないけど」
 ヒカルは力を抜いて、助手席に身体を預けた。
 不意に、沈黙が車内に満ちる。
「なあ、ヒカル」
「んー?」
「あんま強がんなよ」
 ヒカルがちらりと俺に目線を寄越した。
 俺はあくまで前を向いたまま続ける。
「お前の態度、イマイチ年齢不相応。まあ別にそれでいいならいいけど、山口夫妻も友達も、頼っていいんだぞ」
 ーー迷惑をかけちゃいけない。
 怪我をしたヒカルの言動に滲むその意識が、俺にお節介をやかせている。
 ヒカルの目が揺らぎ、黙ったまま俺から目を背けて車窓を見やる。
「神崎さんには頼ってるよ、いっつも」
 俺は苦笑した。
「……知ってる」
 ある種の苦みを感じながら答えた声は、普段より低くなった。
 ヒカルがこちらを見たのが分かる。
 が、何も言わない。
「……何だよ」
 運転しながら、一瞬だけヒカルに目をやった。
 やはり歳不相応に静かな瞳と表情がそこにある。
「何でもない」
 ヒカルは視線を落として、また車窓に顔を向けた。
「……何でも、ない」
 静かに言って、また車内に沈黙が満ちた。

 山口夫妻の自宅は、会社の隣の敷地にあった。そうと分かっているので車を駐車場に留め、自転車を車内に置いたまま、まずヒカルを支えて連れていく。
「ヒカル。大丈夫?」
 出迎えた祖母である花子さんは、心細げな顔でヒカルを抱きしめた。一瞬身体を強張らせたヒカルは、花子さんの背に手を回して応じる。
「心配かけてごめんね。大丈夫だよ」
 ぽんぽんとヒカルがその背を叩くと、花子さんはほっとしたようにゆっくりと腕を解いた。
「左側に転倒したので、左の肘下を擦りむいて、左膝をぶつけてます。左膝の方がコンクリートにぶつかったんで、少し深く傷ついてるみたいですけど、骨には異常なさそうだと本人が言ってます」
 俺は端的に花子さんに説明した。花子さんは何度も頷き、
「ありがとうございます。とにかく無事でよかった」
「ええ。自転車、持ってきますね。そのまま乗るのは厳しいと思いますけど、ハンドルが戻せれば乗れると思います」
 俺は言って、車から玄関口まで自転車を運んだ。
「ほんと。ハンドルがゆがんどるね」
「自転車に挟まれなくてよかったです」
「そうよねぇ」
 俺と花子さんが言っていると、玄関口に腰かけていたヒカルが声をかけた。
「神崎さん、短パン返す」
「あ?そんなん、また今度でいいよ。ほい、これお前のジーパン」
 自転車と一緒に持ってきたヒカルのジーパンを、コンビニ袋に入ったまま渡す。
「本当にありがとうございました」
「いえ。たまたまいただけですから、本当にお気になさらず」
 何度も礼を言う花子さんに苦笑を返し、ヒカルを見やる。
「ヒカル。早く治せよ。練習できないとつまんねぇだろ」
 ヒカルは唇を尖らせて見せた。
「つまんないのは、神崎さんが?僕が?」
「どっちもだろ」
 俺が笑うと、ヒカルは一瞬キョトンとしてから破顔した。
「うん、そうだね。早く治す。待ってて」
 俺はヒカルに手を挙げ、花子さんに一礼すると、車へと戻った。
< 83 / 119 >

この作品をシェア

pagetop