モテ男とデキ女の奥手な恋

【さっき、廊下でジョーに会いました。なんか元気ないみたい。連絡してあげたら?】
 週明けの午前中。珍しく橘から届いた社内メッセージに、俺は首を傾げた。
 ジョーの元気がないって?そんな姿、想像もできない。

 昼休みになると、デスクを立って外に出た俺はジョーに電話をかけた。
 もしもし、と応じる声は確かに硬い。
「ホントに元気ないのな。どうした?」
 俺が訝しみながら問うと、ジョーはややあってから、
『どうやったら、性欲ってなくなりますか?』
「……はぁ?」
 あまりに想定外の質問に、思わず変な声が出る。
 とりあえず、肉食獣から肉を取ったら、飢え死にするんじゃねぇの?
 結構真面目にそう思ったが、ジョーは深刻そうなので黙る。
『こないだ、会社帰りに、ヨーコさんが痴漢にあってて……』
「痴漢ねぇ」
 前にも橘と話したが、確かに遭いそうなタイプだ。あの不健康な色気は、自衛に対して無気力なところから感じるものだろう。そしてそういう臭いを、そうした類の男は敏感にかぎ分ける。
 暖かくなってきた春口は、そういう輩も増えると聞く。
『俺、助けなきゃと思って、男引っ捕らえたんですけど』
 さらっと言うが、実はジョーは柔道経験者らしい。
『でも……名取さんに言われたんです。あんたと何が違うの、って』
「ほぅ」
 俺は感心したように相槌を打った。
 ーーそう来たか。
 なるほど確かに、名取さんからすれば、痴漢もジョーも、自分の意思と無関係に寄って来て、身体を求める男なのであり、
「知り合いな分、余計たちが悪い、くらいに思ってんのかもな」
 ジョーは黙ったまま、嘆息で応えた。同じようなことを言われたのだろう。
『俺も言われて初めて気づいたんです。……ヨーコさんのことを、やらしい目で見てるのは、俺もその男も変わらないのかもしれない。それが、ヨーコさんにとっては、すごくーーすごく、嫌なことなんだって、……その目を見て、ようやく気づいて』
 俺は聞きながら後ろ頭を掻いた。
『でも、姿見るとやっぱり、駄目なんです。抱いた夜のこと思い出して、また抱きたいって思ってーー』
 まあ、それは男の欲求としてはしごく真っ当だわな。よほど印象的な夜だったようだし。
『俺、すげぇ馬鹿です。一人で舞い上がって、期待して、興奮してーーヨーコさんを傷つけて』
 もう消えてなくなりたい、とぼやくジョーに、俺はうーんと少し考えてから口を開いた。
「素直に、それ言ってみたら」
『え?』
「直球勝負がお前の持ち味だろ」
 名取さんは、きっと今まで、男の性欲に振り回されてきたんだろう。ーーいや、性欲をコントロールできないような男の欲求に振り回されていたというべきか。
 振り回され続けて諦め、不健康な色気はますます増幅されて、違う男を寄せつける。ーー負のスパイラル。
『告白するってことですか?……でも、俺の気持ちなんて分かってると思うんですけど』
 俺は苦笑した。
「分かってねぇな、多分」
 一呼吸置いて、なぁ、ジョーと呼びかける。何ですかと問うのを聞いてから、言った。
「お前は、名取さんとどうなりたいの。セフレ?恋人?」
 ジョーが電話口で黙り込んだ。
 少しだけ、考える時間が開いた後、
『……近くにいたいんです』
 呟くように吐き出した言葉は、ジョーのものとは思えないほど静かで穏やかだった。
『ヨーコさんの近くにいたい。頼られたいし、甘えてほしい。笑ってほしい。ーーっていうのは、どういうことでしょう?』
「自分で考えろよ」
 それもそうですね、とジョーが笑う。少しは元気が出たかと俺もほっとした。
『当たって砕けろですね。わかりました。ぶつかってみます』
 声のトーンはだいぶいつものジョーに戻ったようだ。
「お前砕けることとかあんの」
『砕けたことないんで分かりませんけど、とりあえず砕けるまでぶつかってみます』
 俺の冗談に笑いながら返してきたジョーに、最後に釘を刺した。
「ちなみに、結果報告はいらねぇからな」

 ジョーの電話を切ってから、俺はふと橘のことを思った。どういうタイプの痴漢にどこで遭ったかまでは分からないが、正面のデスクで仕事をしている名取さんが遭ったというのだから、同じような時間に会社を退社しているであろう橘も安全とは言えないに違いない。
 橘は痴漢に遭っても声を挙げるタイプだし、傍からもそう見える。が、そこはそれ、どんな奴がどういう気でそうしたことをするのかは分からない。
 段々と大きくなる不安に、スマホを握りしめたまま考える。無駄に不安を煽ることもしたくないが、名取さんの話をしてもよいものか。
 ぐるぐると頭を回り、増幅された不安は徐々に胃を締め付ける。どう伝えたものか。多分あいつのことだ、ただ一般論で気をつけろと言っても笑って済ませて終わりだろう。
 ーーくそ。近くにいれば、少しくらい守ってやれるのに。
 守る?守る、って何だろう。
 自分より強い姉を持つ俺にとって、女を守るなんていう考えは今まで毛頭なかった。守る、守られる、そういう関係を当然だと思う女は面倒くさいと思ってきたし、今でもそれは変わらないのだが。
 俺は時計を見て嘆息した。こんなことに悩んでいる内に昼休みも終わってしまう。
 とにかく心配していることだけでも伝えようと、橘に電話をかける。気をつけろよと言った俺に橘は笑った。
『なに、そんなことでお昼休みに電話?珍しいわね』
 案の定、深刻にとらえる様子もなく笑っている。
「最近痴漢が出たって聞いたからさ。お前、帰り遅いんだろ」
『えー、そうなの?まあじゃあ、気をつけることにする。……気をつけるってどうするんだろう?』
「あのなー」
 俺はついつい脱力してしまった。この抜けたところ、他の男に知られたら本気で危ないんじゃないかと心配になる。
「タクシーで帰るとか、誰かと一緒に帰るとかしろよ」
『毎日タクシーは無理よぉ』
 橘は少し考えてから、
『そうだね。他の人と一緒に帰るようにする』
 とりあえず納得した様子に俺もほっとしたが、橘は嬉しそうにふふふと笑った。
「何笑ってんだよ」
『だって心配してくれたんでしょ』
 そりゃ心配するだろ、と俺が言うと、橘はまた笑う。
『ありがと』
 その感謝の言葉がやたらと照れ臭く感じて、俺はぶっきらぼうに相槌を打つと電話を切った。
 声を聞いて、増幅していた不安が落ち着いていることに気づきつつ、毎晩夜道を歩く橘の安全を願った。
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