モテ男とデキ女の奥手な恋
「マーシーに電話。山口会長から」
午後、電話を取り次いでくれたのは高橋さんだった。俺はお礼を言いながら電話を受ける。
『もしもし。週末はヒカルがどうも』
電話を取ると、だいぶ耳慣れただみ声が短く言った。
「いえ、たいしたことはしてませんから。どうですか、その後様子は」
『本人は大丈夫だと言い張りよったんですが、一応、午前中に病院に行ってきて。骨には異常なしで、学校に行くちゅうんで送りました』
「そうですか。それはよかった」
俺もほっとして答えると、山口会長は何か言いたそうにしながらためらっているのが分かった。
「……どうしました?」
『いや……』
問うと、山口会長は何かを決心したように嘆息してから、
『よく、付き合うてくれたな』
しみじみと響く声音に、俺は一瞬何のことを言われているのかと首を傾げかけた。
『無茶なーー馬鹿なことを言うオヤジにも、礼儀知らずなガキにも、よう付き合うてくれた』
そのことか、と俺は笑う。
「どうでしょうね。そう思ったのは最初だけで、割と楽しませてもらってますよ」
頑固で力強い山口会長のことも、無遠慮で無邪気なヒカルやその友達のことも、嫌いではない。
「向こうにいたままじゃできない経験をたくさんさせていただきました。こちらこそ、ありがとうございます」
言うと、山口会長も笑う声が聞こえた。
『解放しよう』
「え?」
『もう、ヒカルもだいぶ馴染んだようやけ』
俺が咄嗟に何も言えずにいると、会長はしみじみと続けた。
『君くらいの年齢だと、仕事もプライベートも大事な時期やろう。すまんかったな』
「え?いえーーそんな」
ーー東京に戻る。
その話が出ればさぞかしほっとするだろうと思っていたのだが、実際には戸惑いの方が大きい。
そのことに驚きながら、俺は会長との電話を切った。
脳裏には、車窓を眺めるヒカルの横顔が浮かんでいる。
「どうした?」
なんとなく放心状態の俺を見て、隣のデスクの阿久津が首を傾げる。
「いや、その」
何と言ったものか、と一瞬視線を泳がせ、
「山口会長が。……解放してやる、って」
阿久津の釣り気味の目が、不思議な戸惑いに揺らいだように見えた。が、その目を俺に見せたのは一瞬のことで、すぐに視線をパソコンに向けたので、気のせいだったかという気もする。
「そか」
応答の余りの短さに、俺はそれ以上どう動けばよいのか分からない。何とも言えない沈黙の中、江原さんが近づいてきた。
「かーんざっきさん」
にこり、と笑うその顔には、最初に出会った頃の優等生ぶったところはない。ごく自然で、だからこそむしろ大人びたように見える。
「よかったですね、帰れて」
ぽん、と俺の肩を軽く叩く。
「ああーーうん、ありがとう」
「えー、なんか嬉しそうじゃなーい。もっとテンション上げて行きましょうよぉ」
江原さんは笑って両拳を握った。そんな言葉どこかで聞いたなと懐かしく思い出す。山崎財務部長か。江原さんと気が合いそうだな。
「アキ。まだいつ帰れると決まったわけじゃないぞ。準備段階は目処がついたけど、こっから先もまだまだ調整事項はあるんだからな。組合がオーケーになったからって会社がオーケー出すとは限らない」
「それもそうだ」
今は試作品に手直しをしていて、夏頃からは本格的に生産開始になるだろう。会社からすればそのくらい切りのいい時期まではいろと言われるかもしれない。
「私からも本社に連絡しておくよ。でも、ひとまずお疲れさま、マーシー」
上家さんがデスクから穏やかな目を向けた。俺がどうもと返すと、江原さんはまた俺の肩をぽんぽんと軽く叩いて自分のデスクに戻った。
東京にーー関東に戻る。
パソコンに向き合ってからようやく、橘の顔が浮かんだ。喜んでくれるだろうか。多分、喜んでくれることだろう。考えてみたら気持ちが通じ合ってから今まで、いわゆる遠距離状態なのだ。そもそもそうして近づいたきっかけ自体、ほとんどこの転勤にあった。関東に戻るということは、橘との関係性がまた変わるということだろう。今は物理的に距離があるからこそ思いやれたり、多少物足りないながらも適度な距離感を保っていられる、が。
ーーまあ、そんなこと今から考えても無意味か。
ひとまず今のところは、帰宅時に付き添えるようになりそうだということでよしとしておこう。