冷たい華道家は、私だけに花を乱す
第18話 あなたの花が、世界で一番美しい
京都華道展まで、あと二日。
私たちの作品『居場所』は、完成したまま展示室の中央に置かれていた。
曲がった枝。
苔むした石。
小さな白い蕾。
そして、花が呼吸できるような、広い余白。
私は作品の前に立ち、何度も花の状態を確認していた。
茎の吸水。
葉の張り。
蕾の色。
室温。
照明の熱。
花は生きている。
完成したからといって、そこで仕事が終わるわけではない。
むしろ、ここからが私の仕事だった。
「……小春」
背後から声がした。
振り返る。
朔が立っていた。
濃紺の着物。
白い襟。
右手には、薄い装具。
相変わらず、どこか近寄りがたいほど美しい。
けれど、その表情は穏やかだった。
「……眠れましたか」
私は少し笑った。
「一応」
「一応?」
「夢にまで花が出てきた」
朔は小さく笑った。
「僕もです」
私は驚いた。
「朔も?」
「はい」
彼は頷いた。
「夢の中では、右手が自由に動きました」
私は何も言えなかった。
朔は自分の右手を見た。
「でも、目が覚めたら」
彼は少し笑った。
「現実に戻りました」
私は胸が痛んだ。
「……朔」
彼は首を横に振った。
「大丈夫です」
そして、作品を見つめた。
「今は、この花があります」
私は頷いた。
「……うん」
そのとき。
会場の事務局員が近づいてきた。
「久遠様、三崎様」
私たちは振り返った。
「制作体制についての確認を行いますので、こちらへお願いします」
私は胸が冷たくなった。
朔は静かに頷いた。
「承知しました」
私たちは事務局の会議室へ向かった。
室内には、三人の担当者が座っていた。
出展管理責任者。
技術審査担当者。
そして、外部の審査委員。
机の上には、私たちが提出した資料が並んでいた。
作品の構想図。
制作記録。
花材管理表。
作業分担表。
そして、共同制作者としての登録書類。
私は深呼吸した。
担当者が口を開いた。
「まず、確認させてください」
朔は頷いた。
「はい」
「今回の作品では、構造部分を外部の職人が制作していますね」
「はい」
朔は静かに答えた。
「真田透氏です」
担当者は続けた。
「また、花材の選定と最終的な配置について、三崎様が大きな役割を担っています」
私は頷いた。
「はい」
担当者は書類を見た。
「一部から、久遠様ご本人が制作の主要部分を行っていないのではないかという申告がありました」
朔は黙って聞いていた。
そして、静かに答えた。
「事実として、僕は今回、重い花器を持っていません」
担当者が顔を上げた。
朔は続けた。
「枝を固定する作業も、ほとんど行っていません」
私は息を止めた。
彼は正直だった。
何も隠そうとしなかった。
朔は静かに言った。
「ですが、作品の構想と造形設計は、僕が担当しました」
そして、私を見た。
「花材の管理と、最終的な生命表現は、三崎小春が担当しました」
私は顔を上げた。
朔は続けた。
「構造の安全性と施工は、真田透氏が担当しました」
担当者は頷いた。
「……なるほど」
朔は静かに言った。
「これは、共同制作です」
会議室が静かになった。
彼は続けた。
「僕一人の作品ではありません」
私は胸が熱くなった。
担当者が尋ねた。
「では、久遠様は、ご自身が花を直接生けていないことについて、どうお考えですか」
朔は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「以前の僕なら、作品を完成させたとは言わなかったと思います」
私は彼を見つめた。
朔は続けた。
「花鋏を持ち、枝を切り、花器に挿す」
「……」
「それが華道家の仕事だと考えていました」
彼は右手を見た。
「けれど、今は違います」
担当者たちは黙っていた。
朔は静かに言った。
「花を生けることは、花を支配することではありません」
私は息を止めた。
「花の姿を見つめ、その生命を理解し、最も自然な場所を探すこと」
彼は続けた。
「その考え方を、僕は彼女から学びました」
朔が私を見た。
その目は、真剣だった。
「三崎小春は、華道の資格を持っていません」
私は胸が苦しくなった。
けれど、彼は続けた。
「ですが、四年間、毎日花と向き合ってきました」
「……」
「花が傷む理由を知っています」
「……」
「花が生き延びる方法を知っています」
彼は静かに言った。
「僕にはない技術を、持っています」
私は何も言えなかった。
朔は担当者たちを見た。
「だから、僕は彼女と作りました」
長い沈黙。
そして。
「それが、今回の作品に必要だったからです」
会議室が静まり返った。
私は胸が熱くなった。
担当者が私を見た。
「三崎様」
私は顔を上げた。
「はい」
「あなたご自身は、どのような役割を果たしたとお考えですか」
私は深呼吸した。
そして、静かに答えた。
「花が、展示期間中も生きていられるようにすることです」
担当者は頷いた。
私は続けた。
「今回の作品では、花をたくさん使っていません」
「……」
「だからこそ、一輪の状態が作品全体に大きく影響します」
私は資料を開いた。
「花材の選定では、開花時期と吸水性を重視しました」
「……」
「搬入後の温度変化も考えました」
私は続けた。
「また、最後に蕾を配置したのは、私の提案です」
担当者が顔を上げた。
「……蕾?」
私は頷いた。
「はい」
「なぜ、蕾を?」
私は少し考えた。
そして、静かに答えた。
「まだ咲いていない花にも、居場所があると思ったからです」
会議室が静かになった。
私は続けた。
「花屋で働いていると、売れ残った花や、形の悪い花に出会います」
「……」
「でも、それらが美しくないとは思いません」
私は静かに言った。
「ただ、見てもらえる場所が違うだけなんです」
担当者たちは黙って聞いていた。
私は続けた。
「だから、この作品では、咲いている花だけを主役にしたくありませんでした」
「……」
「これから咲く花にも、場所を作りたかったんです」
長い沈黙。
そして。
一人の審査委員が静かに頷いた。
「……よくわかりました」
私は少し安心した。
けれど、まだ結果は出ていない。
担当者たちは資料を確認し、しばらく協議した。
そして、出展管理責任者が口を開いた。
「今回の出展規定では、共同制作を認めています」
私は息を止めた。
「また、制作体制についても、事前に申告がなされています」
朔は黙って聞いていた。
担当者は続けた。
「真田氏の作業は、安全確保のための構造施工であり、申告された範囲内です」
私は胸が高鳴った。
「三崎様の役割についても、制作記録から独立した創作上の寄与が確認できました」
そして。
「したがって、出展資格に問題はないと判断します」
私は息を止めた。
「……本当ですか」
担当者は頷いた。
「はい」
朔は静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
私も深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
担当者は続けた。
「ただし、作品の表示には、共同制作であることを明確にしてください」
朔は頷いた。
「もちろんです」
私は胸が熱くなった。
ようやく。
ようやく、認められた。
会議室を出たあと。
私は廊下で立ち止まった。
「……朔」
彼が振り返る。
「はい」
私は笑った。
「よかったね」
朔は頷いた。
「はい」
そして、静かに微笑んだ。
「あなたのおかげです」
私は首を横に振った。
「二人のおかげ」
朔は少し考えた。
そして、頷いた。
「……そうですね」
私は笑った。
「真田さんも」
朔も笑った。
「はい」
私たちは顔を見合わせた。
そして、静かに笑った。
その日の午後。
展示室では、最終調整が行われていた。
真田が構造を確認する。
私は花材の状態を確認する。
朔は全体の構成を見て、細かな指示を出す。
作品『居場所』は、静かに完成へ近づいていた。
私は最後に、白い蕾の向きを少しだけ変えた。
すると、朔が静かに言った。
「……その角度がいいです」
私は笑った。
「そう?」
「はい」
彼は微笑んだ。
「光が、よく当たります」
私は頷いた。
「うん」
そのとき。
背後から、女性の声がした。
「……綺麗ね」
振り返る。
九条玲奈だった。
淡い水色の着物。
長い髪をまとめ、以前より少し落ち着いた表情をしていた。
私は身構えた。
玲奈は作品を見つめていた。
「……本当に、綺麗」
朔が静かに言った。
「玲奈」
彼女は顔を上げた。
「久しぶりね」
私は黙っていた。
玲奈は私を見た。
「三崎さん」
「……はい」
彼女は少し迷った。
そして、静かに言った。
「謝りたいことがあるの」
私は息を止めた。
玲奈は続けた。
「花乃井のこと」
「……」
「それから、五年前のこと」
私は何も言えなかった。
玲奈は目を伏せた。
「私がしたことは、許されないと思ってる」
長い沈黙。
そして。
「……ごめんなさい」
私は黙っていた。
簡単に許せることではなかった。
花乃井の建物を買わせたこと。
脅迫めいた連絡を送ったこと。
朔と私を引き離そうとしたこと。
そのすべてが、今も残っている。
私は静かに言った。
「……謝ってくれたことは、受け取ります」
玲奈が顔を上げた。
私は続けた。
「でも、まだ全部、許せるわけじゃありません」
玲奈はゆっくり頷いた。
「……わかってる」
私は続けた。
「花乃井の賃貸借契約についても、まだ交渉が続いています」
玲奈は目を伏せた。
「……ええ」
そして、静かに言った。
「父には、もう一度話したわ」
私は黙った。
玲奈は続けた。
「私の頼みで、あの建物を買ったことも、説明するつもり」
私は息を止めた。
「……説明?」
玲奈は頷いた。
「関係者と弁護士に」
私は少し驚いた。
彼女は続けた。
「私がしたことを、なかったことにはできないから」
私は何も言えなかった。
玲奈は朔を見た。
「朔」
彼が顔を上げた。
「……何ですか」
玲奈は少し笑った。
「あなたの花、変わったわね」
朔は黙った。
玲奈は続けた。
「前は、完璧だった」
「……」
「でも、近づきにくかった」
彼女は作品を見つめた。
「今は、少し不完全」
私は息を止めた。
玲奈は微笑んだ。
「でも、ずっと好き」
朔は静かに答えた。
「ありがとうございます」
玲奈は頷いた。
そして、少し笑った。
「私も、自分の花を生けたの」
私は顔を上げた。
「……そうなんですか」
玲奈は頷いた。
「ええ」
「……」
「誰かの真似じゃなくて」
私は少し考えた。
そして、静かに言った。
「……見てみたいです」
玲奈は驚いた。
「……本当に?」
私は頷いた。
「はい」
彼女は少し笑った。
「ありがとう」
そして、静かに頭を下げた。
「じゃあ、また」
玲奈は去っていった。
私はその背中を見つめた。
朔が静かに言った。
「……変わりましたね」
私は頷いた。
「うん」
けれど、私は思った。
変わったからといって、過去が消えるわけではない。
それでも、人は変わることができる。
その可能性を、否定したくはなかった。
その夜。
京都華道展の開幕前夜。
私はホテルの部屋で、最後の確認をしていた。
花材管理表。
温度記録。
展示期間中の点検予定。
そして、作品説明文。
そこには、こう書かれていた。
『居場所』
『久遠朔の造形設計と、三崎小春の生命管理・花材構成による共同制作』
私はその文字を見つめた。
自分の名前が、正式に作品の一部になっている。
最初は、信じられなかった。
資格もない。
華道の家に生まれたわけでもない。
ただの花屋。
そう思っていた。
けれど、今は違う。
私は花屋として、ここにいる。
自分の仕事を持ち、自分の技術を持ち、自分の意思で。
私は静かに微笑んだ。
そのとき。
スマートフォンが鳴った。
朔からだった。
『少しだけ、会えますか。』
私は返信した。
『ロビーでなら。』
すぐに返事が来た。
『行きます。』
私は上着を羽織り、部屋を出た。
ロビーには、朔が立っていた。
濃紺の着物。
白い襟。
静かな姿。
私は近づいた。
「……どうしたの?」
彼は少し微笑んだ。
「眠れなくて」
私は笑った。
「また?」
「はい」
朔は頷いた。
「明日が、楽しみすぎて」
私は少し驚いた。
「……緊張じゃなくて?」
彼は考えた。
「緊張もしています」
そして、静かに続けた。
「でも、それ以上に」
彼は私を見た。
「あなたと作った花を、誰かに見てもらえるのが嬉しい」
私は胸が温かくなった。
「……私も」
朔は少し笑った。
「小春」
「何?」
「少し、歩きませんか」
私は頷いた。
「うん」
私たちはホテルの中庭へ出た。
夜の京都。
静かな庭。
石灯籠。
小さな池。
風が、木の葉を揺らしていた。
私たちは並んで歩いた。
しばらく、何も話さなかった。
やがて、朔が立ち止まった。
「……小春」
私は振り返った。
「何?」
彼は少し迷った。
そして、静かに言った。
「僕は、あなたに会うまで」
私は黙った。
「花を生けることが、人生のすべてでした」
彼は続けた。
「花が美しければ、それでよかった」
「……」
「誰かに認められれば、それでよかった」
私は彼を見つめた。
朔は静かに言った。
「でも、今は違います」
「……」
「花を生ける時間も、大切です」
「……」
「けれど、あなたと朝食を食べる時間も」
私は胸が熱くなった。
「……」
「一緒に買い物をする時間も」
彼は少し笑った。
「あなたに叱られる時間も」
私は思わず笑った。
「……そんなに叱ってないよ」
朔も笑った。
「そうですね」
そして、静かに続けた。
「全部、大切です」
私は何も言えなかった。
朔は私の左手を取った。
「小春」
「……うん」
「僕は、あなたと一緒に生きたい」
私は息を止めた。
彼は続けた。
「久遠流の名前がなくても」
「……」
「右手が、以前のように動かなくても」
その声は、静かだった。
「あなたと、普通の毎日を過ごしたい」
私は胸が熱くなった。
「……朔」
彼は少し笑った。
「急に、重いことを言ってしまいましたね」
私は首を横に振った。
「……ううん」
そして、彼の手を握り返した。
「嬉しい」
朔の表情が変わった。
私は続けた。
「私も、一緒に生きたい」
長い沈黙。
そして。
朔は目を閉じた。
深く息を吐いた。
「……ありがとう」
私は少し笑った。
「でも」
彼が顔を上げた。
「……何ですか」
私は真剣に言った。
「お互いの仕事は、大切にしようね」
朔は頷いた。
「もちろんです」
私は続けた。
「私は、花乃井で働き続けたい」
「はい」
「あなたも、自分の花を生け続けてほしい」
朔は微笑んだ。
「……はい」
私は笑った。
「それが、私の希望」
彼は静かに頷いた。
「約束します」
そして、少し顔を近づけた。
「……キスしてもいいですか」
私は笑った。
「いいよ」
彼は優しく私を抱き寄せた。
唇が触れる。
静かな夜。
池の水音。
遠くの虫の声。
私は目を閉じた。
その瞬間。
彼の右手が、少しだけ私の背中に触れた。
私は驚いて顔を上げた。
「……痛くない?」
朔は微笑んだ。
「大丈夫です」
私は少し笑った。
「無理しないでね」
彼は頷いた。
「はい」
そして、静かに言った。
「小春」
「何?」
「明日」
私は顔を上げた。
「うん」
「一緒に、花を咲かせましょう」
私は胸が熱くなった。
そして、笑った。
「……うん」
私たちは、もう一度、手をつないだ。
翌朝。
京都華道展が開幕した。
会場には、多くの来場者が訪れた。
華道関係者。
美術評論家。
海外の招待客。
そして、一般の観客。
私は展示室の入口に立っていた。
胸が高鳴る。
緊張で、手のひらが少し汗ばんでいた。
朔が隣に立った。
「……小春」
私は顔を上げた。
「何?」
彼は微笑んだ。
「大丈夫です」
私は笑った。
「うん」
そして。
私たちの作品『居場所』の前に、最初の観客が立った。
年配の女性だった。
彼女はしばらく作品を見つめた。
そして、静かに言った。
「……優しい花ね」
私は息を止めた。
女性は続けた。
「なんだか、ほっとする」
私は胸が熱くなった。
朔が静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は微笑んだ。
「この蕾、これから咲くのね」
私は頷いた。
「はい」
「……楽しみね」
私は笑った。
「ありがとうございます」
女性はゆっくり去っていった。
私は作品を見つめた。
小さな白い蕾。
まだ咲いていない花。
けれど、確かにそこにある。
私は静かに呟いた。
「……よかった」
朔が私を見た。
「……はい」
彼は微笑んだ。
「本当に」
そのころ。
別の展示室では、久遠征臣が自分の作品の前に立っていた。
巨大な松。
白い菊。
黒い花器。
圧倒的な存在感。
多くの来場者が集まっていた。
征臣は満足そうに微笑んだ。
けれど、そこへ一人の男性が近づいた。
久遠宗一郎だった。
征臣の表情が変わった。
「……兄さん」
宗一郎は静かに言った。
「話がある」
征臣は眉をひそめた。
「今ですか」
宗一郎は頷いた。
「今だ」
そして、静かに続けた。
「外部調査の最終報告が出た」
征臣の顔から、笑みが消えた。
宗一郎は続けた。
「文化財修復事業の会計について、重大な問題が確認された」
征臣は何も言えなかった。
宗一郎は静かに言った。
「征臣」
「……」
「もう、逃げるな」
会場の喧騒が、遠くに聞こえていた。
京都華道展は、始まったばかりだった。
そして。
久遠流の長い歴史を揺るがす真実も、ついに明らかになろうとしていた。