ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
静かな夜の廊下に、感謝を伝える直樹の上擦った声が響いていた。舞はその声を聞きながらじっと天井の一点をみつめていた。
戻ってきた直樹の妻は疲れてはいても晴れやかな笑顔だった。
「思いのほか難産でした……、三人目だから油断してました」
そしてすぐに目を閉じた。深い寝息が聞こえてきた。
夜が明ける頃、舞は起き上がった。
下腹部の痛みに顔を歪めながら、重い足取りで新生児室へ向かった。
「……」
インファントウォーマーの上で寝ている我が子を見下ろした。
愛情が湧いてこなかった。そしてなにもかもどうでもいいような気にもなった。
隣のベッドを見た。
直樹の妻が生んだ子供が眠っている。……この子が、蓮見君の子、
抱き上げたい衝動に駆られた。
「……」
舞は周囲を窺いながら、恐る恐る直樹の子に触れてみた。
……かわいい
自分の子にもまだ伝えていない言葉が、唇から零れた。
……この子なら、育てられるかもしれない。蓮見君の子供なら
冗談だ。犯罪だ。ただ、そう思っただけ。ただの独り言。
……でも、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、この子を蓮見君と私の子にするくらいなら
周りには誰もいない。他の母親も、看護師も。
素早く自分の子と直樹の子のネームバンドを付け替えた。
これからひとりで子育てをする――その"ご褒美"が欲しかった。
心の中で繰り返す『一瞬だけ』の言い訳が罪悪感を軽くした。
……記念に写真を一枚撮ったらすぐに戻すからね
と、ポケットに手を突っ込もうとして、そもそも付いていないことに気づいた。
……ごめんね、すぐスマホ取ってくるから、ごめんね
誰に言うともなく心の中で謝り病室へと戻った。
直樹の妻はまだ眠っていた。
カチャカチャカチャ――
スマホを手に持って、舞はふいに耳を尖らせた。
微小な高い音が四方八方で鳴っていた。振動は地鳴りを伴ってやがて激しくなった。あらゆる物体がぶつかる音、建物全体が出す音、激しく揺れる視界。
舞の手の中からスマホが滑り落ちた。
突き上げるような揺れにベッドの縁を掴んだ。
「地震っ!」
叫んだ。
天井の一部が剥がれ落ち粉塵が舞った。悲鳴や泣き声があちこちから聞こえてきた。立っていられないほどの揺れの中、固定されていない家具や器具が激しく動き回り向かってくる。
舞はその場に蹲った。
「山都さん、大丈夫っ?」
警報音が鳴り響く中、通りかかった佳苗が舞をみつけて駆け寄ってきた。いつのまにか停電も起きていた。
「赤ちゃん見てくるからっ、ベッドの下にもぐって!」
「う、うん」
言われた通りベッドの下に蹲って揺れをやり過ごした。
「――赤ちゃんっ、私の赤ちゃん」
どこからか泣き叫ぶ声がして、舞はのろりとベッドの下から這い出た。
廊下には患者が蹲り横たわっていた。物が散乱し、ガラスは割れ、倒れるはずのない大きな器械がとんでもない場所でひっくり返っていた。
「まだ体が動かないでしょうっ、また大きな揺れがきたら赤ちゃんを守って自分も守れるっ?」
看護師が直樹の妻を説き伏せていた。
「……」
揺れる視界の中、舞はぼんやりそれを見ていた。今この瞬間に現実味がなかった。
……あれっ? 私、その前になにしてたっけ、
……赤ちゃんを……。