ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
陸が小声で言った。
「俺の方が大変だけど、今回はいいよ。次は活躍してもらうからさ」
私は耳だけを寄せる。
「次って?」
「出たいって言ってたじゃん、『書道パフォーマンス』。――やろうよ」
……なんで今言う?
いつだったか、書道に関する動画や書籍をあれこれ眺めながら呟いただけなのに。
「決まりね」
陸は黙った私に見向きもせず、結論を出してしまった。
「じゃあ、今日はその練習ってことで。気楽に」
「……」
高すぎる目標が映像となって頭の中に現れる。
私の緊張がふいにずれた。陸が、ずらしてくれたのだと気づいた。
――「まずは、地元中学校の書道部員による書初めをご覧ください!」
新春の挨拶をしていた司会者が、どんどん進行を進めていって、あっという間に私たちの出番になった。
紹介を受け、陸と深く一礼をした。
陸が真剣な顔つきで半切の上に両膝をついた。
筆にたっぷりの墨を付け、左肘を床に立てる。
陸は、息を吐いた。
そして一気に、流れるように、行書で筆を運ぶ。
私は陸の移動と一緒に墨池を動かした。
陸が最後の一文字を書き終えて、筆をゆっくりと上げた。
その余韻に見物客が感心している。
次は私の番だ――
私は静かに深く息を吐き、半切の左上に片膝をついた。
少し目を閉じ、自分の中に『無』を作る。
一瞬が数分に思える感覚の中、私のこれまでが溢れてきた。
だけどそこに痛みはなかった。
まばたきをして、半切の上に気持ちを戻した。
蒼い墨池に筆を入れる。
……筆は少し高い位置を持って、……肘は伸ばす、――バランス大切に、――筆圧、気をつけて、……スピード落とさず、丁寧に――。
あの日から、いつも私だけみんなと違う朝だった。
あきらめない――と決めていても怖くてたまらない朝や、
奇跡が起きない夢を見て、泣きながら目覚めてしまう朝もあった。
だけど越えてきて、今がある。
楷書で、大きく、一文字。
最後の横画をしっかりと止めた。
筆を半切から離した。
しん、とした世界で筆を置いた。
私と入れ違いに陸が立ち上がった。
金色の筆がダイナミックに文字の上を走っていく。
何度も試しながらふたりで見つけた、ただひとつの構成。
陸の筆が流れて、空間で止まった。
――終わった。
陸が、興奮と共に私を見た。
私も。
作業班が、私たちの作品を掲げた。
おおっ、と見物客から歓声が上がった。陸と目が合って頬が緩んだ。
衝立に掲示される。
【 朝
まだ誰も知らない
あたらしい日 】