ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
いろはが顎を突き出して、部屋に入れ、と合図してきた。
言われるがままドアノブに鍵を差し込んで部屋に入った。
ドアスコープから外の様子を探った。
――「お兄ちゃん!」
いろはが声色を変えた。
止まった足音とともに声がした。
「いろは、こんなところでなにしてるんだ」
その声は、蓮見家の長男、大樹だった。
大樹は、次男の翔樹に比べると落ち着いている。翔樹のようにあからさまな暴言は吐いてこない。けれど冷たい視線は同じだ。そしていろはのことをとても大切にしている。
「なにか買ってきたの?」
「コンビニスイーツ。新作だって」
「わあ! いつもありがとう」
ふたりの足が動き出した。声と一緒にどんどん遠ざかっていく。
……。
私は抓られた腕を手のひらで強く押さえ、俯いた。
――「うちに住むなら条件がある。私たちの視界に入るな」
女将に連れられて旅館に来た日、専務に言われた。
女将が、私を引き取った経緯を家族に説明した後だった。
翔樹は「絶対嫌だ!」と怒鳴りながら私を突き飛ばし、いろは「晴君が可哀想」と泣いた。大樹だけは耐えるようにじっとしていた。
後で、いろはから聞かされた。
「あんたの母親ね、うちのパパのことずっと好きだったんだって。それ隠して近づいてきたんだよ」
母がいなくなってから、専務は母の交友録を辿って真相に辿り着いた。
「晴君を連れ去ったのも、酔ったパパを手に入れようとしてパパに拒まれて、その腹いせなんだって」
いろはは大人のような溜息をつきながら腕組みをした。
「大変だったんだから。ママは、パパのこと『信じられない』ってずっと泣いてて。まあ、今も心の底では信じてないと思うけどね」
「……」
「だってさ、もっと“深い関係”じゃなきゃ誘拐なんてしなくない?」
いろはの口調は突き放したそれで、無意識に“本当の母親”を庇っているようで、不思議な気持ちが沸いた。
「とにかく、うちはあんたの母親のせいでめちゃくちゃなのよ」
「……」
そして『だから言うことを聞け』と要求してきた。
玄関ドアから耳を離し、電気を点ける。
殺風景な、生活に必要なものだけがある部屋。
でも、平気だった。
物欲より食欲の方が問題だから。
朝も夜も厨房で出してくれるし、昼は給食が出る。だけど本音は、それだけじゃとても足らない。
もっと、食べたい――。
……数時間前に食べたばかりなのにな。
お腹を擦る。
いつも虚しさや怒りの手前に、空腹があった。
「寝ちゃおう!」
水道の水をたくさん飲んでから、私は布団を敷いた。