ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
      *
 
 あの日からいろはの話が気になり、遠くから女将の様子を窺った。
 
 ……先生の話は、きっと具体的なことじゃなかったよね?
 不安と楽観を出し入れしながら観察を続けていると、女将が旅館の裏手で躓いた。
 
 あっ!
 思わず声をあげそうになり、両手で口を塞いだ。
 転んだ女将は、着物のまま地面に膝をつき低く唸っている。
 助け起こしたい衝動を堪え、ハラハラしながら見守っていると、女将は自力で立ち上がった。手のひらの土を払っている。
 そして腕を押さえたまま、片足を引きずって歩いていった。
 
「……」
 誰もいなくなってから、女将が転んだ場所へ素早く向かった。

 ……あ、これかあ。
 雑草に紛れて、木の根っこが突き出している地面があった。
 ……危ないから、抜いておこう。
 また女将が同じ場所で転ばないように、私は両手で地面を掘った。
 思いのほか固く、裏口からナタを持ってきてなんとか切った。
 足で地面を均す。
 暑い……。
 流れ出る汗を腕で拭う。
 土で汚れた両手をパンパン、と合わせ、ふう、と息を吐く。
 シャツが汗で濡れていた。
 でも! と私は顔を太陽に向ける。
 ……私にはもう替えの下着もタオルもたくさんあるんだ!
 
 
 急いで部屋へ戻り、着替えた。
 そしてすぐ旅館の仕事に戻った。
 
「渚央ちゃん、郵便局行ってきて」
 すぐに用事を言付かった。
「わかりました!」
 私は封筒を預かって、走り出す。
 大女将から貰ったクロップドパンツは涼しくて動きやすい。快適すぎて、寝る時ですら履いていたいと思うくらい気に入っている。
 足取りは軽く、頬も緩む。
 

 自転車で旅館を出てほどなく、陸と会った。
 お互い、思ってもみないところで会った――という顔をしていて、ちょっと笑えた。

「元気?」
 私は自転車を片足で止め、声を掛けた。
「あー。そっちは?」
「まあまあ」
 あーってなんだろ? けどむこうも、まあまあってなんだ? と思ってるよね。
 陸の目が左右に揺れている。
 ……あ、もしかして誰かと一緒なのかな?
 塀の向こう側に人の気配があった。
 私は片手を上げた。
「またね」
「うん……」
 詮索せず、再び自転車を漕いだ。
 強い日差しを受けながら先を急ぐ。
    
 
 お使いを終えて旅館に戻った。
 第二駐車場に専務の姿があった。
 私は気を引き締めた。
 
 専務は母に対して特に強い殺意――のようなものを持っていて、その視線は娘の私にも向けられている。

 私は自転車から降り、木の陰で専務が去るのを待った。
 ここを抜けないと駐輪スペースへ入れないからだ。
 専務はしきりに下を向いて行ったり来たりしていた。
 
 私はその様子をじっと見守った。
 ……落とし物でもしたのかな?
< 33 / 110 >

この作品をシェア

pagetop