ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜

「渚央のことは私に任せなさい」
 床に落ちる泣き声の中、大女将が静かに言った。
「乙葉、異論はないね」
 女将は言葉なく頷き、専務は唇を噛んで部屋から出て行った。

「渚央、荷物をまとめてきなさい」
「……」
 この状況に付いていけない。ただ、体は動いた。
 大女将の気持ちが変わってしまったら……専務が戻ってきて、決定が覆ってしまったら……。
 それが怖かったのだと思う。
 
 私は大急ぎで部屋へ戻った。
 荷物は学校のものがほとんどだ。
 何往復かして、離れへと運んだ。

 そうして言われるがまま大女将の後ろをついていき、空き部屋を見ていった。


  *

「この部屋にするかい?」
 窓から旅館の庭園が臨める部屋を勧められた。
 ……わ、わあ。
 窓を開けると、揺れる木々と一緒に私の心にも風が吹いた。
「こんな素敵なお部屋、いいんですか」
 紅葉の木が目の前にあった。
「ああ、問題ない。誰も使ってないから」
 過去に、“図々しい子”と叱られた場面を思い出しながら、お礼を言った。
 
「明日からは旅館を手伝わなくていい。中学生がすることをしなさい」
「勉強、ですか?」
 それ以外に思いつかなくて聞いた。
 大女将は高い声で笑った。
「おまえがしたいことをすればいいんだよ」
「したいこと……」
 眉間を寄せて深く考えてみたが、やっぱり思いつかなかった。
 大女将は愉快だと言いたげに笑ってから「まあ、じっくり考えればいい」と続けた。

「お小遣いは五千円ぐらいか?」
「い、いえっ、そんなには……」
「そうか? 今まではいくら貰ってた?」
「三千円です」
「わかった。それから生活や学校に必要なものは別にあげるから、言いなさい」
「……はい」
 一応返事はしたけれど、本気にしないでおこう、と気を引きしめた。
 それを見透かしたように、大女将に念を押された。
「私は三人の子育てをしてきたんだ。なにが必要かぐらい知っている。おまえぐらいの年齢は特に成長が早いからね」
「……」
 服や靴のサイズのことだと分かった。
  
 ……私の、本当の“おばあちゃん”。
 いつかなにもかも打ち明けて、甘えられたらいいな……。
 そんな希望に揺れてしまう。

  
 夕方、社長が帰ってきて、大女将が事情を説明した。
 穏やかな社長は「うんうん」と頷いただけだった。
 私は「よろしくお願いします」と丁寧に言った。
 
 その日から、大女将が作ってくれたご飯を三食しっかり食べた。
 後片付けは私がした。
 大女将は「気を遣う必要はない」と言ってくれたけど、そういうわけにはいかない。
 
 それ以外の時間は勉強をした。
 
 穏やかな日々だった。
 夏休みがもうすぐ終わろうとしていた。
 
 ――いろはが、帰ってきた。

 
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