ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
「――渚央」
垣根の向こうから大女将が私を呼んだ。声が近い。
この距離じゃ、絶対に今の会話を聞かれている。
「……はい」
私は覚悟を決めて、大女将のそばに行った。
「今まで、いろはの宿題をやらされてたのか」
大女将は開口一番に言った。
今さら嘘はつけないし、考えてみたら庇う理由もなくなった。
私は小さく頷いた。
「あれが“本当の”いろはの姿なんだな」
「!」
「人間誰しも裏表はあるが……」
大女将の声には失望があった。
私はそわそわした。身の置き場がない。
確かに、『おしとやかで優しい』いつものいろはを見ているから、ショックも大きいかもしれない。
「おまえは大丈夫か」
「え」
私は少し顔を上げた。
「いろはにずっと苦しめられてきたのだろう。憎んでないか?」
私は少し考えて、「大丈夫です」と答えた。
いろはのことは憎らしいけど、憎くはない。
もちろん、嫌いだけど。
……自分でも、自分の感情がよく分からなかった。
ただ、いろはが笑っている時、母への懐かしさで涙が出そうな瞬間がある。意地悪な言葉を投げつけられる時も細めた目で睨みつけられる時も、なぜだか切なくなる。
母が泣きながら私を抱きしめて「なんでこんなことになっちゃったんだろう……」と震えていたのは一度や二度じゃなかった。
いろはも同じなんじゃないかと考えることがある。だってふたりは“よく似ている”から。
「渚央」
「!」
意識が母へと飛んでしまっていた。
大女将は悲しそうだった。私は気を引きしめて答えた。
「仕返しとか考えてないので、心配しないでください」
女将の言葉を“持ってきた”。そして口の端をにい、っと上げた。
「私なら、大丈夫です!」
そう、大丈夫。
だってこの苦しみはずっとじゃない。
耐えてみせる。
「あのっ! もうちょっと雑草抜いてきます! 途中までだと気持ち悪いから」
どうせなら垣根の端から端まできれいにしたい。
「……」
私は一礼して駆け出した。