ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜

2-4 ほんのすこしの違和感


 ――「なんだって? おまえ、うちの自慢の温泉にたった一回しか入ってないのか?」
 大女将に驚かれたのは夕食の時だった。

「それはよくないな」
 社長も大女将と一緒に顔を曇らせた。
「すいません……」
 私は謝った。
 入らなかったことで悲しませるなんて、拍子抜けしてしまう。 

 ここで暮らすようになって少し経った頃、彩さんに教えてもらった。
「仕事あがりにお風呂入っていいんだよ。それが旅館で働く最大の恩恵だからね」
 彩さんは心底嬉しそうに言った。
「一日の疲れも取れるし、ほら、肌もつるつる」
「ほんとだあ」
 彩さんが指す頬を凝視する。 
 寮の部屋にもシャワーはあるが、温泉の方がいいに決まっている。
 そうして私は、柔らかいお湯にたっぷりと浸かった。
 ほかほかになって部屋に戻ろうとして、第二駐車場で翔樹に出くわした。
 ――おまえ、うちの温泉入ったのかよ……っ。っざけんな! 晴樹は入れないのにっ!
 あの日が、温泉に入った最初で最後だった。
 
「誰かと一緒だと嫌なのか?」
 大女将が誤解している。
「そういうわけじゃ……」
「受付が終わった貸切露天風呂にお入り。鍵をこのテーブルに置いておくから」
 曖昧に否定したからか、私が恥ずかしがっていると思ったようだ。
「夏休みだし、いいんじゃないか、夜更かししても」
 社長も後押しする。
「明日はゆっくり起きなさいな」
 大女将と社長が私の答えを待っていた。
「……じゃあ、そうします」
 翔樹に言われた言葉がよぎったけれど、追い出される寸前の私を庇ってくれたし、もしみつかっても見逃してくれそうな気がした。
 
 ――うつらうつらしながら、目覚ましのアラームを止めて静かに起き上がった。
 目を擦って、タオルと下着を持って動き出す。
 テーブルの上に置かれた鍵を手に、離れと旅館とを繋ぐ扉を開けた。

 私は小さな足音で、貸切露天風呂のドアに鍵を差し込んだ。
 ライトアップした木々の下に檜の風呂が見えた。
 湯けむりと夜空が重なっていた。幻想的だった。
 脱衣カゴの中に脱いだ服を入れ、掛け湯をしてから湯船に体を沈めた。
 鈴のような音で湯口から落ちる湯と、その波紋を眺める。

 ……夢みたいだった。
 とけてなくなりそうなくらい、気持ちよかった。
 たっぷり浸かってから、大きな岩にちょこんと座った。
 足だけを湯につけて、バシャバシャと交互に動かす。

 ……鼻歌なんか歌いたいけど、それはちょっとやりすぎだよね。
 自分で自分に突っ込んで、肩をすくめて夜風を仰ぐ。
 
 カラカラカラカラ……、とドアが開く音がして、私はびっくりしてお湯の中にじゃぼんと、肩まで浸かった。
 誰が入ってきたのだろう。
 鍵、閉め忘れた――と気付いても遅かった。
 湯けむりの向こうに目を凝らした。
「!」
 入ってきたのは、女将だった。
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