ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
「あっ」
私は慌てて膝立ちになった。
女将も驚いたようだが「そのまま入っていて」と言われた。
「……」
無防備な自分が心細くてどうしたらいいか分からない。
「……ぬるくない?」
ためらいがちの声に、涙が出そうになった。
「だいじょうぶ、です」
女将が私の近くまで来た。
私と、初めて会話をしようとしている……?
「……」
もどかしいような苦しいような気持ちで、私はお湯の中で指先を握った。
窺うように女将を見た。
女将は視線を足元に逸らしていたけれど、そこには私の一切を拒否しているみたいにしっかりと閉じられた口元も、無機質な眼差しもなかった。
「……」
今なら女将と言葉を交わせそうだった。なんでもいい。気温のことでも温泉のことでも。
この人――母と、心が通うような会話をしてみたい。
「いろはが、あなたをいじめている、というのは本当?」
「!」
だけど、やっぱりそれは叶わないみたいだ。
女将は"いろはのお母さん"だから、いろはのことで私に話しかけているんだ。
……あたりまえのことだよね。
「いじめられてません」
私は、答える。
落胆とあきらめがするりと私の中に戻ってきた。
「でも、いろはの宿題をやってるんでしょう。それに――」
「困ってるみたいだから……です。無理矢理じゃないです」
誰のための嘘だろう――。
分からないけど、私は静かに嘘をついた。
「……そうなの?」
「はい」
俯いたままで頷いた。
女将は何か言いたそうだったけれど、「上がっていいですか、のぼせちゃって」と早口で告げた。
私は首から下にタオルを垂らして、小さな歩幅で脱衣カゴまで進んだ。
バスタオルで大雑把に水滴を拭いて、女将の視線を背後に感じながら、半分濡れたままで服を着た。
……本当は、いつもちょっとだけ期待している。
必死で隠しているくせに、心の奥では『娘』だと気づいてほしいって。
気づかれたら晴樹は戻ってこないから絶対だめなのに、それを願ってしまう自分はズルいかな。
でも、どうせ期待は裏切られるし、近づかない方がいいよね……。
「……その痣」
「――はい?」
女将の声が風に流れていった。
「……失礼します」
私は鍵を渡して、深く頭を下げ廊下へ出た。