ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
*
夏休みも今日で終わる。
旅館の手伝いはしなくていい――と言われたけれど「最後だから」と、私は大女将に頼んで旅館の外周で水を撒いていた。
じりじりした真夏の太陽に、植物たちもぐったりしていた。
「部活でもやりなさい」と言われているから、入るかどうかはともかくとして、旅館の手伝いは今後できそうにない。
そうなるとちょっと名残惜しい気もする。
「あら、えらいわね。お手伝い?」
「!」
背後から声がして、手元のレバーでホースの水を止めて向き直った。
「いらっしゃいませ」
年配の夫婦客を前に、自然に口から出ていた。
「学生さん?」
「はい。中学二年です」
「ああ、じゃあ直樹君の娘さんだね」
「!」
しまった――と思った。
この夫婦が専務の知り合いだったなんて想像もしていなかった。
平穏な時間を過ごしたせいで油断してしまった。
「お……荷物、お持ちします!」
私は"誤魔化す"ことを選んだ。というか、それ以外考えられなかった。
「はは、子供に荷物を持たせるなんてできないよ」
「こう見えて、力持ちなんです!」
私はボストンバッグに向かって両手を伸ばす。
「じゃあ、一回だけ持ってみて。とっても重いから」
奥さんは笑いながら折れてくれた。
私は張りきってバッグを持った。
「持てます!」
よかった! と思ったら、口を開けて笑っていた。
……私がこんな風に笑うと、母は急に抱きしめてきたよね。
蘇ってきた思い出に胸がぎゅうっとなってしまう。
「い、行きましょう!」
記憶を振り払って、夫婦を促した。
フロントに案内し、ボストンバッグを荷物台に置く。
「山本様、お待ち申し上げておりました。ご希望のお部屋をご用意いたしております」
受付が始まりお辞儀を残して去ろうとすると、奥さんに「待って」と引き留められた。
「せっかくだからお嬢さんにお部屋に案内してもらいましょう」
「それがいい」
夫婦は満面の笑みだ。
私はうろたえる。
奥さんが微笑んで、斜めに首を傾けた。
「いつもは案内を辞退してるんだけど」
「……」
そんな風に言われたら、断れない。
大女将が私の後見人になったことが公表されたためか、フロントスタッフも小さく頷いて合図を送ってきた。
「わかりました! こちらへどうぞ!」
私は再びボストンバッグを持って、夫婦の前を歩いた。
予約の部屋は、お風呂に一番近い部屋だった。