ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
離れに何度も行ってタイミングを見計らった。だがなかなかチャンスがなかった。
渚央も、俺の姿を見ると体を硬直させて俯いてしまう。――そうしろ、と言ったのは俺のくせに、もどかしかった。
結局、渚央の本質を見極められないまま『あの日』が来た。
晴樹が戻ってきた、あの日。
――渚央が俺たちの家族だと気づいたあの日。
俺たちはただ立ち尽くした。
誰も何も言えなかった。言葉ってなんだっけ? そんなおかしなことを思っていた。
だが晴樹が「渚央お姉さん」「いろはさん」と口にしたとき、俺たちの現実が動き出した。
晴樹にそれを教えることができたのはただひとり――誘拐したあの女だと、誰もが理解した。
自分を形成していたものすべてがバラバラになったような感覚だった。
善悪も、信念も、記憶さえも。
渚央が出て行って、警察が晴樹に聞いた。
「晴樹君は家族のことをずっと覚えていたの?」
晴樹は屈託なく言った。
「この前、お母さんに会ったときに教えてもらいました。僕の苗字は『はすみ』だって。そして家族のお名前も書いてくれました」
そういって晴樹は、一枚の紙をポケットから出した。
皆でぎこちなくそれを覗いた。
そこには確かに、俺たち家族の並びに渚央の名前があった。
そして、いろはの名前だけが、ぽつんと離れて書いてあった。
「あ。そうだ。いろはさんに言わなきゃ」
晴樹は弾かれたようにいろはを見た。
俺たちも――。
いろはは顎を前に出したまま、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
頬骨の高さ、少し腫れぼったい目元、細い鼻筋。
見慣れたその顔が、まるで初めて見る顔みたいに思えた。
それを感じたのは、たぶん俺だけじゃない――両親も祖父母も兄も、いろはに向けた視線には怯えと驚愕があった。
「あのね、お母さんが、会いたかったって言ってたよ」
晴樹の声にも、いろはは顔を上げなかった。
「だけどむりだから、“そのおうち”で幸せにしてもらうのよ、って」
その言葉の意味に辿り着いたとき、俺たちがいる場所から音が消えたようになった。
何の説明にもなっていない。だがその伝言は饒舌に真実を語っていた。
「……他には、なにか、ある?」
母が、晴樹に縋りついて聞いた。
「うーん。他には、渚央おねえさんに!」
「……なん、て?」
晴樹はにこっとして続けた。
「あやまれなくてごめんね、と、これからは幸せにね、だよ」
母の体が震え出した。
怒りに飲み込まれそうなその表情に、俺も一瞬で同調した。
目の奥が鋭い熱に覆われ瞬きができなくなった。
……は、
自分のしたことの大きさに触れもせず?
謝れば終わりか?
幸せを願えば許されると?
兄が母の両肩を掴んで叫んだ。
「母さんっ、しっかりっ」
「!」
胸を割くような大声に、俺は我に返った。
俺だけじゃない、父も祖母も、そしていろはも。
「今日は難しそうなので、明日改めて伺います」
俺たちを観察していた刑事が言った。
ぞろぞろと家から出て行く警察官たちの中、いろはが早足で横切った。暗い目が床を睨みつけていた。
遠くで、バタン――と、ドアを閉める強い音が聞こえてきたが、誰も口を開かなかった。
それからの父と母は、罪悪感で死んでしまうんじゃないかとさえ思った。
晴樹が帰ってきていなければ、両親は正気を保っていられなかったような気がする。
いや、晴樹が帰ってきたから、渚央が自分たちの家族だと知ることができたのだが……。
渚央にきつく当たってきた俺たちにとっては、この喜びのはずの真実は、罪と向き合う試練となった。