ひとつだけ違う朝〜誘拐犯の娘として虐げられた私が、本物の家族を取り戻すまで〜
「そう。そんな宿題があるのね……、難しそうね」
「球技大会でクラス代表だったの? すごいわね」
「お習字は楽しい?」
会話を続けながら、どう説得したらいいか考えた。
新しい環境で学校生活を始めることは応援できても、娘を手放すことは耐えられない。
せっかく渚央を取り戻せたのに、また離れるなんて……どうしたらいいの?
これまでの分――と言ったら身勝手だと分かっていても、一緒にいられなかった分、この先はそばにいたかった。この子の母に、“戻りたかった”。
ほどなく、夫がリビングへ飛び込んできた。
慌てて帰ってきた様子だった。
だが渚央を見たら、口を噤んでしまった。――いつものように。
頼りにならず、もどかしい気持ちで椅子を勧めた。
夫はぎこちなく、渚央の前に座った。
「おかえりなさい……急がせてしまって、すみません」
渚央が小さくなっている。
「……」
私たちの娘なのに、渚央はいつも遠慮する。
親に向かって「すみません」だなんて……、そう言わせる境遇に自分たちが置いたくせに、他人行儀な言葉に胸が張り裂けそうだった。
「出て行く……って、行き先は……」
開口一番の夫の言葉に、私は絶句した。
……出て行くことを止めないで何言ってるのよ?
渚央は笑みを浮かべたまま、少し首を斜めに倒した。
「どこでも大丈夫です」
「……そう、か」
私はぎょっとして夫を見た。
けれど夫の唇がからからに乾いていた。虚ろな目はまるで逃避をしているみたいに今を見ていない。
分かっている。
夫の発言は、渚央の幸せを優先しているからだと。
でも渚央は、そう受け取らないだろう。
「――あ、……あのね、そうじゃなくて」
私は夫の代わりに、今の発言を正しく言い直そうと口を開いた。
けれど渚央は、そよ風のように笑っていた。
「なるべく遠くがいいかなって思います」
うろたえる私の横から夫が頷いた。
「……わかった」
そして項垂れてしまった。
「ちょ、ちょっと……」
私は夫の腕を掴んで揺すった。このままじゃ誤解が解けない。
「ありがとうございます」
渚央が立ち上がった。
私の動き出した足に、渚央が振り向いて言った。
「見送りは大丈夫です」
「……」
そうじゃなくて……、ねえ、待って……、
私はたまらずに夫を見た。
夫は座ったまま、どこかの一点をみつめてじっとしているだけだった。