ベリーズカフェ15周年記念オリジナル短編『端的に言って恋だった』水守恵蓮/著
十月中旬。取材もいよいよ明日、中日を迎える。
私は自宅を出るとその足でまっすぐ歌舞伎座に向かい、午前十時半に到着した。
楽屋の襖の前で気合いを入れ、自分を鼓舞する。
「おはようございます!本日もよろしくお願いします」
「おはようございます」
一度深呼吸してから声をかけると、中から丁寧な挨拶が返ってきた。
その声の主は、もちろん藤川園十郎……柏木志信さんだ。
彼は緩く羽織った浴衣姿。
鏡台の前に座って支度中で、こちらには背を向けたまま目もくれない。
「あの、これ差し入れです。千寿堂の焼菓子」
私は畳の楽屋に上がり込むと、手に提げていた紙袋を顔の高さに持ち上げ、軽く揺らした。
すると、彼の肩がピクッと動く。
鏡越しに目が合ったのはほんの一瞬。
彼の視線はすぐに私から逸れ、わずかに伏せられる。
「……ありがとうございます。後でいただくので、そちらに置いておいてください」
「はい」
お礼は相変わらず素っ気ないけど、これはまあ予想の範囲内。
『柏木志信』について調べ始めた私は、彼の好物が九州地方の銘菓である千寿堂の焼菓子だという情報を得た。
早速お取り寄せして、届いたのが昨日のこと。
私は靴を脱いで畳の間に上がると、指示されたテーブルに紙袋を置く。
自己満足的達成感から大きく頷き、それからなんとなく室内に目を走らせた。
楽屋は六畳ほどの和室で、二間続きになっている。
こちら側は鏡台があるこしらえ用の部屋で、もう一間は大きな姿見が置かれた着替え用の部屋。
すでに豪華な衣装やかつらが揃えられている。
意味もなく吐息をついて、柏木さんに視線を戻す。
すると、彼はこちらを振り返っていた。
「……?なにか?」
直に目が合い、私は首を傾げて訊ねる。
「いえ」
柏木さんは短く答えただけで鏡に向き直り、こしらえの続きを始めた。
こしらえとはいわゆるメイク、支度のこと。
まず顔や首、肩まで下地となる鬢付け油を塗りたくる。
女形は襟足から背中まで、真っ白に仕上げる。
目がつり上がるように頭に布を巻き、赤い目張りを入れる。
眉を引き紅を射したら、もう本来の顔立ちはわからない。
こしらえの様子はもう何度か見学させてもらっているけど、柏木さんが美しい女性に変貌していく様にはついつい見とれてしまう。