あなたが私を忘れても、わたしはあなたを忘れない。
「この前、一緒に大学の近くを歩いていたとき、湊、いつも通っていた道なのに、どこに向かっているのかわからなくなったことがあったの」
私は息を止めた。
「何度も来た場所だったのに。自分が何をしに来たのかも、途中でわからなくなって……」
莉奈は、少しだけ目を伏せた。
「最初は、本人もすごく落ち込んでた。忘れたことを思い出そうとして、何時間も考え込んでいたこともあった」
……そんなことがあったなんて。
私は何も知らなかった。
「それから、病院の予定や薬の管理も、以前より周りのサポートが必要になってきてる。調子がいい日もあるけど、うまくいかない日もあるんだよ」
「……湊は、今もそういうことがあるんですか?」
「あるよ」
莉奈は、迷わず答えた。
「ただ、毎日同じように悪くなるわけじゃない。普通に話せる日もあるし、いつもと変わらないように見える日もある」
そして、少しだけ悲しそうに笑った。
「だから、そばにいる私たちも、どこまでできるのか、いつも考えてる」
私は唇を噛んだ。
湊は、私と会っているとき、いつも笑っていた。
私の話を聞いて。
私のことを知ろうとして。
時々、恥ずかしそうに笑って。
そんな湊しか、見ていなかった。
でも、その笑顔の向こう側には。
私の知らない不安が、ずっとあったのだ。
「……湊は、自分の病気のこと、どう思ってるんですか?」
私が尋ねると、莉奈はしばらく黙っていた。
「怖いんだと思う」
やがて、ぽつりと答えた。
「湊ね、病気がわかってから、何度も言ってたの」
莉奈の声が、少し震えた。
「自分が自分じゃなくなっていくみたいで怖いって。大切な人のことを忘れて、その人を傷つけるのが怖いって」
胸が痛かった。
「……美月ちゃんのことも、そうだった」
私は顔を上げた。
「湊はね、高校時代に好きだった女の子がいるって、何度も話してたの」
「……」
「その子のことだけは、どうしても忘れたくないって」
莉奈は、悲しそうに笑った。
「でも、忘れちゃったんだよね」
涙が出そうになった。
湊は、私のことを忘れたくなかったんだ。
忘れないように、必死だったのかもしれない。
それでも、忘れてしまった。
私の名前も。
一緒に過ごした時間も。
私を好きだった気持ちも。
「……湊が美月ちゃんと再会したとき、すごく戸惑ってた」
莉奈は続けた。
「自分にとって大切な人だったはずなのに、何も思い出せないって」
「……」
「それでも、また美月ちゃんに会いたいって言ってたよ」
とうとう、涙が頬を伝った。
私は慌てて顔を伏せた。
泣くつもりなんてなかった。
湊のことを知りたかっただけなのに。
知れば知るほど、苦しくなっていく。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「私、何も知らなくて……」
声が震えた。