恋の模範解答を教えて~年下君の甘い執着に落とされまして~
 結局、その後『そのまま帰宅する』という選択肢を選ぶことはできなかった。
映画を観終えた和香は、帆高と共に夕食を食べる流れになっていた。
帆高が「おすすめの店があります」と案内してくれたのは、日比谷の喧騒から少し離れた場所に静かに佇む、老舗の洋食レストランだった。
 重厚な木製の扉をくぐり抜けた瞬間、落ち着いた琥珀色の照明とクラシカルな調度品が醸し出す雰囲気に、和香は思わず息をのんだ。

(ここ……昔、家族で何度か来たことがある……)

 創業数十年を誇る、格調高い名店だ。
一品一品の値段設定も当然ながら高く、本来なら何週間も前から事前に予約を入れておかなければ足を踏み入れられないはずの場所だった。 だが、帆高が入口で名前を告げると、黒のタキシードをビシッと着こなした給仕長が深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ、久東様。お待ちしておりました」

 たまたまキャンセルが続いて空いていたのだろうか。内心で首を傾げながらも、レストランの入口から案内される間、帆高にしっかりと繋がれたままの手の熱のせいで、和香の意識はそれどころではなくなっていた。 彼のスマートすぎるエスコートや身のこなしを見ていると、ふと疑問が頭をよぎる。

(久東くんって……もしかして、本当はかなりいいところのお坊っちゃまなのかな……?)

 自分のプライベートや生い立ちについて、滅多に語ろうとしない彼。
自分のことばかりを知られていて、彼の核心には何も触れさせてもらえないもどかしさに、和香は胸の奥で小さな寂しさを覚えていた。
 店内の奥、大きなガラス窓から夜景が一望できる絶好のテーブル席へと案内された二人は、向かい合うようにして腰を下ろした。テーブルに飾られた一輪のバラと、柔らかく揺れるキャンドルの炎が二人を照らし出す。

「今日は俺が誘ったので、好きなものを頼んでくださいね」
「いいよ!ここはちゃんと割り勘にしよう。ここ、すごく高いお店でしょう?」
「ええ、知っています」
「知ってるって……。久東くんって、もしかしてお金持ちのお家育ちなの?」
「さぁ、どうでしょうね」

 のらりくらりとした完璧な営業スマイルでかわされ、和香は小さく唇を尖らせた。

「なーんか、狡いなぁ……。私の事情はぜんぶ知ってるくせに」
「はい。和香さんのことは知っています」

 そう言って満足そうに口角を上げる帆高は、ワインリストから視線を上げると、意味深に目を細めた。

「……今、『久東くん』って言いましたよね。ちゃんと名前で呼んでください」
「あー……っ! ごめんごめん、そうだった」

 つい癖で苗字で呼んでしまうのだが、なかなか口になじまない。
会社での“先輩と後輩”から一歩踏み出し、彼の名前を直に口にすると、一気に“本物の恋人”としての距離感に引きずり込まれてしまう気がして怖かったのだ。
 やがて運ばれてきた伝統的なハンバーグステーキやコンソメスープに舌鼓を打ちながら、二人は他愛のない会話を交わし、グラスの赤ワインを口に含んだ。 細くしなやかな指先でワイングラスの脚を支え、静かにグラスを傾ける彼の立ち振る舞い。
その洗練された美しさを目の当たりにするたび、和香の中で彼の素性に対する好奇心がフツフツと持ち上がってくる。
 普段ならば職場の後輩のプライベートに踏み込むような真似はしない和香だったが、少しだけワインの酔いが回ったこともあり、思い切って問いかけてみた。

「……本当に、帆高くんは普通の家の人なの?」
「普通、とは?」
「まあ、君が誰だって私には関係ないんだけどね。私の頼もしい後輩であることには変わらないし。でも、なーんか大事なことを隠してる気がするんだよね。ほら、君って仕事も恐ろしいほどできるでしょ?語学も複数ペラペラだし。なのに、新卒入社のはずなのに一年目から数年までの配属先データだけが空白になってるのが、どうしても不思議で」

 和香の直球の問いかけに対し、帆高は動じる風もなく、静かにワイングラスをテーブルへと置いた。カチャリと透き通ったガラスの音が響く。

「和香さんが、そういう目に見えるものに価値を置くような人じゃないってこと、俺はちゃんと知っていますよ」
「……っ」

 射抜くような眼差しで優しく微笑まれ、和香はそれ以上言葉を続けることができなくなった。
 これ以上踏み込むのは、彼が張り巡らせている見えない壁を無理やりこじ開けるようなものだ。
そこにはきっと、触れられたくない深い事情があるのだろう。和香は小さく息を吐き出すと、それ以上の追及をそっと胸の奥へと押し戻した。

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