想定外につき、対処不要
 家を出てから直ぐに、彼女は自分の家に帰ると言って、歩き出して行った。俺が視線で後を追うと、タクシーが来て、家の脇で静かに停まった。

 彼女はタクシーのドアに手を添えた時、こちらを見てきたが、口角を上げただけで、そのまま乗り込んで行った。

 俺も軽く笑みを返して、車庫に停めていた車に乗り、ハンドルを握った。そこで目に入った指輪から、彼女の手と、交わした言葉を思い出し、少し照れくさくなった。

 思わず口角が上がったが、直ぐに戻し、本社に行こうと、車を走らせて行った。

 スケジュールは手帳にあるけど、企業からのメールや打ち合わせの調整を片付けようと考えていた。

 本社に着いてから、トイレで少し身なりを整えようと、足を進めた時だった。見覚えのある姿が雑巾を片手に、洗面台の鏡を拭いていた。

「また、お掃除ですか」

苦笑いした俺の顔が、鏡越しに見えたところで、社長が振り返った。

「そうだけど、君はまた仕事かい?」と言って、口の端を軽く上げ、こちらを軽く見上げた。

「はい。少し確認したいことがあったので」俺がそう応えると、社長は少し肩を上げて、直ぐに戻して言った。

「それより、これから散歩に行かないかい?」

「散歩、ですか……」

 唐突な提案に戸惑ったが、社長に目を向けると、優しい眼差しをしていた。

「たまにはいいじゃない。ね」社長は言いながら、掃除道具を丁寧に片付け、俺のほうを1度見てから、足を進めて行った。

 そこで俺は軽く鏡を眺めてから、社長の後を追った。

 その後ろ姿は、少し痩せたように感じたが、頼もしさが見えて、懐かしい気持ちになった。

 社長は何も口にせず、前を見ながら歩いて行き、俺が後をついて行って着いたのは、野外ステージのある公園だった。

 長椅子が幾つも置かれ、一番後方の真ん中辺りに、社長は静かに腰掛けた。俺も左側へ同じように腰掛けて、自然の空気を吸い込んで、吐き出すと共に肩の力を抜いた。


 すると、社長がこちらを向いて、直ぐに視線を下げた。そして、再びこちらに移すと、笑顔を浮かべながら言った。

「覚えているかい?あの時、僕が先に見つけたのに、君は何も言わずに、璃乃の所に行って、声を掛けた」

 社長はふと息を漏らし、徐々に前を向いていった。

 俺は前を見ながら、当時の事を思い出したが、社長の気配を察して、口を結んだ。

 暫く互いに前を向いたまま、そこにある景色を眺めていた。
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