今だけの婚約者~身代わりのはずが、冷たい旦那様にお腹の子どもごと愛されていました~
「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 蓮さんがカップ手に取ったことを確認して、再びキッチンに戻る。

「母から」

 それからすぐに、背後から声をかけられた。

「は、はい」

 つい勢いよく振り返った私に、蓮さんがわずかに怪訝な顔をする。それは一瞬のことで、すぐに感情の読めないポーカーフェイスになる。

「君はよくがんばっていると聞いた」

「え?」

 思いもよらない話に、何度かパチパチ瞼を瞬かせる。

「意欲的で、教え甲斐があると」

 重ねて伝えられ、どうやら悪い意味ではないようだと理解が追いついてきた。

「ありがとう、ございます」

 ここへ来た当初、蓮さんからは冷たく突き放されている。
 彼は不本意そうだったから、放っておかれても仕方がない。そう感じていただけに、蓮さんからこんなふうに話しかけられたことに舞い上がりそうになる。

「お義母様の選んでくださった講師の皆さんは、本当に良い方ばかりで」

 舞は嫌味な人だというように愚痴を言っていたが、お義母様はそんな人じゃない。
 彼女は先入観を持たず、私を真っすぐに見てくれる。呉服屋の娘にもかかわらず着付けができなくても、彼女からなにかを言われたりされたりしたことはない。
 気分に左右されることのない一貫したお義母様の姿勢は、私も見習いたい。

「お義母様には本当によくしていただいていて、どのレッスンもすごく楽しいです。それに、お義母様のあの凛とした姿が、大好きな祖母に似ていて。私もあんな女性になれたらなって……」

 ふと蓮さんの方を見ると、射抜くような視線とぶつかった。

「ご、ごめんなさい、ひとりでしゃべってしまって」

「いや」

 怒っている様子はない、のかな?
 それならと、まだ伝えられていなかった感謝の言葉を続ける。

「学ぶ機会をくださって、ありがとうございます」

 なんとなく照れくさくて、食事の準備をしていた手もとに視線を戻す。

「正直に言えば、君はすぐに投げ出すのではと思っていた」

「そんな無責任なことはしません」

 振り向かないまま、首を左右に振る。蓮さんがどんな顔をしているのか、確かめる勇気はない。

 私がここで投げ出してしまえば、そもそも藤沢屋に救いの手は差し伸べてもらえない。
< 31 / 111 >

この作品をシェア

pagetop