今だけの婚約者~身代わりのはずが、冷たい旦那様にお腹の子どもごと愛されていました~

近づきすぎた距離

「お疲れ」

 ダイニングのテーブルで勉強をしていたところ、背後からふいに声をかけられてハッとする。

「蓮さん! お帰りなさい」

 すっかり集中していたから、彼が帰宅した物音にまったく気づいていなかった。

 時刻はまだ二十一時をすぎたばかりだ。
 こんな時間に彼が帰宅できるなんて珍しいけれど、考えてみたら世の中はもうゴールデンウィークに入っている。そもそも、休日出勤が普通になっていることがおかしい。相変わらず、彼は働きすぎだ。

「手話の勉強をしていたのか?」

 テーブルに広げてあった手話の本をチラッと見た彼は、言葉でそう聞きながら手話でも同じように尋ねてきた。

「はい。蓮さんは、手話が、できるの、ですね」

 知らなかったと目を見開きながら、こちらも同じように手話でも返す。

 手話に合わせて、ゆっくりとした口調になる。そんな私を、彼は目を細めてくすりと笑った。

 たったこれだけのことが、なんだか特別なやりとりに思えて胸がくすぐったい。
 朝食を用意するようになってから、私たちの関係は少しずつ気さくになってきた。会話が格段に増えたし、彼はこうして声をかけて気遣ってくれる。
 声をかけられることがうれしくて、つい弾んだ口調になったことに気づかれていないといいけれど。

「当然だ。嫁いでくる女性に求めておいて、こちらができないなどありえない。それに利用客や取引先に、耳の不自由な人もいる。筆談でもコミュニケーションは取れるが、手話を使えると知ればずいぶん喜ばれる」

 なるほどと、うなずく。

 蓮さんは前に、帯の結び方も教えてくれたことがある。きっと彼は、たくさんの知識や技術を身につけているのだろう。お義母様と同じく、私にとって彼も尊敬する人だ。

 ほかに、蓮さんはどんなことができるのか。趣味はあるのかと、彼のことをもっと知りたくなる。

 憧れの気持ち……なのだろうか。本当に彼と結婚するのは私じゃないというのに、ここのところ蓮さんのことばかり考えてしまう。

 彼との距離が少しずつ近づいていることを、喜べばいいのか警戒しなくてはならないのか。よい関係を築きたいと思う半面、踏み込みすぎてしまえば気持ちが後戻りできなくなりそうで怖い。

 どうしたらいいのか答えは出せないまま、この暮らしが自分の中でより大切なものになるのを止められないでいた。
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