彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
「ごめん金子ちゃん。やっぱりこれ、自分でやってもらっていい?」

 ……静まり返ったフロアに、自分の思っていた以上にはっきりとした声が響き渡った。
 いつもとは違う声色の私に、営業サポート部の社員たちの視線が一斉にこちらへと集まる。
 突き返された資料を両手で受け取った金子ちゃんは、目を丸くして口をポカンと開けていた。

(あ……完全に、何が起きたのかわからないって顔してる……)

「急でごめんね。でもやっぱりこれ、金子ちゃん自身で処理してほしいんだ」

 二度目のダメ押しでようやく頭が追いついたのか、金子ちゃんはパチパチと瞬きを繰り返しながら「え、あ、は、はい……」と狼狽えた声を漏らした。そして魂が抜けたような顔のまま、慌てて自分のパソコンに向き直る。
 一気に突き放してしまった罪悪感から少し可哀想になり、私は金子ちゃんの丸まった背中に向けて、できる限り優しく明るいトーンでフォローの言葉を重ねた。

「金子ちゃんにもさ、これからできることをどんどん増やしていってほしいから。ほら、私がいつ倒れてもいいようにさ!」

 自分なりの必死な自虐を交えて場を和ませようとしてみたものの、パニックに陥っている金子ちゃんの耳にはまったく届いていないようだった。
 どこから手をつけていいのかすらわからない様子で、おろおろと視線を泳がせながらデスク周りをキョロキョロさせている。
 私は気まずい苦笑いを浮かべながら、「……それじゃあ、よろしくね」とだけ言い残し、急ぎ足で自分のデスクへと戻った。

(……よ、よし、一応ガツンと言えたけど……金子ちゃん大丈夫かな)

 私が席に腰を下ろすと、止まっていた周囲の空気が一気に解け、カタカタとキーボードを打つ音が再びフロアを満たし始めた。
 私も何事もなかったかのようにパソコンの画面へ向き直り、溜まっていた作業を再開する。
 チラッと魚住さんのデスクに目をやると、我関せずといったクールな顔つきで淡々と書類にペンを走らせていた。

(これで、今日のミッションは成功だ……)

 脳裏に鮮やかに浮かび上がるのは、昨夜のあの温かで美味しい食卓の風景。
 きっと今夜も、昨日と同じ……いや、それ以上の絶品手料理がテーブルに並ぶに違いない。
 今からその時間が待ち遠しい……私は口元を緩ませながら、いつも以上のハイペースで手元の抱え込み業務を処理していった。

(あれ、金子ちゃん……どうしたんだろう)

 集中してキーボードを叩き続けてから、どれくらいの時間が経っただろうか。
 そろそろお昼休憩に入ろうかとひと区切りついたタイミングで、金子ちゃんがどこか悲しげな足取りで魚住さんのデスクへ歩み寄っていくのが見えた。
 不穏な空気を感じてこっそり目を凝らすと、金子ちゃんは上目遣いで魚住さんに話しかけている。

「やっぱり私、この仕事に向いてない気がします」

 金子ちゃんは、今にも消え入りそうな自信なさげな声で、魚住さんに完全な白旗を上げていた。

(え……私が突き返したせいで、もうそんなメンタルになっちゃったの……)

 不測の事態に私が一人で青ざめる中、魚住さんは眉を一ミリも動かさずに「どうしたんだ?」と落ち着き払った声で問いかけた。
 金子ちゃんは目を涙ませ、私のデスクのほうを気にしながら小さな声で訴え始める。

「……パソコンも全然得意じゃないし、仕事もなかなか覚えられないし……それに……先輩にも嫌われてるみたいで……」

 ……え、先輩って、私のこと?
 思わず魚住さんのデスクを凝視してしまう。金子ちゃんの小さな声は、あいにく私の地獄耳にはクリアに届いていた。

(私のせいで……心が折れたってこと?)

 自分が原因で部署の雰囲気を壊してしまったのかもしれないという恐怖で、背中に嫌な汗が吹き出す。
 魚住さんは「そうか……」と低く呟くと、胸の前で手を組み、静かに思考を巡らせた。
 そして数秒後……低く響く男らしい声で、金子ちゃんの真意を引き出すように静かに尋ねた。

「……で、金子はどうしたいんだ?」

 魚住さんの静かな問いかけに対し、金子ちゃんは俯きながら「辞めたいです」と小さな声で答えた。
 私の全身から、一気に血の気が引いていく感覚が走る。

「……そうか」

 魚住さんは特に驚く様子もなく、ただ淡々とその言葉を受け止めた。
 金子ちゃんは居づらくなったのか、「……申し訳ございません」と絞り出すように頭を下げると、ハンカチで目元を押さえながら早足でフロアを走り去っていった。
 魚住さんは追いかける様子もなく、ただ私のほうに視線を投げてくる。
 目が合うと、魚住さんは立ちあがり、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってきた。
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