彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
 ――帰宅は、私のほうが早かった。今日は珍しく、残業なしで帰れることに。
 八時には家に着くというメッセージをもらってから、私の頭の中は魚住さんの食卓のことでいっぱいだった。

(そろそろかな……)

 八時を五分すぎてから、家のドアを開ける。すると、ちょうど帰ってきた魚住さんと廊下でばったりと鉢合わせた。
 魚住さんの右手には、食材が詰まったスーパーの袋が握られている。

「ジャストだな。嗅覚だけは無駄にいいみたいだ」
「た、たまたまです! 別に待ち伏せしていたわけでは」
「わかっている。いいから中に入れ」

 昨晩に続いて、二日連続で足を踏み入れる魚住さんの部屋。
 たったそれだけのことなのに……この部屋はすでに私にとって安心感のある、特別な空間に思えていた。

(それほどまでに、この家は温かい……)

 独身の男の人の部屋なのに、何故か実家に帰った気分になれる。それはきっと、あのクオリティの食卓があると知っているからだろう。
 習慣のようにキッチンで手を洗う魚住さんの隣に並び、今日も調理工程を見学させてもらうことにした。

「えーと米は……よし、もう少しで炊き上がるな」
「え? いつ炊いたんですか?」
「今朝だ。帰ってくる時間に合わせて、予約炊飯を仕込んでおいた」

(すごい……朝の忙しい時間に、夜の帰宅時間まで計算して炊飯予約してるなんて……)

「まず最初に、肉をタレにつけておく」

 豚バラ肉をパックから取り出して、ササッと作った生姜焼きのタレの中に漬け始めた。
 ステンレスのボウルの中に、豚肉が沈んでいく。ものの三分で、この工程は終わった。

「本当は長い時間漬けておきたいんだが……しょうがないな」
「はい……お腹空きました」

 魚住さんは「まったく」と鼻で笑い、次の工程に移ろうとしている。

「今日は生姜焼きと、何かもう一品作ろうと思ったんだが」

 そう言いながら、魚住さんは買ってきたばかりのポリ袋から、コロンとした綺麗な深緑色のアボカドを手にした。

「アボカドのナムルでも作るか。簡単だし」

 手際よくアボカドに包丁を入れ、形の揃った綺麗な角切りにしていく。それを、合わせ調味料の入ったボウルの中に手早く移した。
 ごま油と塩、そして白ごまが混ざり合った絶妙なタレの中に、濃厚なアボカドが合流する。

(ああ……ごま油のいい香り……)

 タレが全体にしっかりと絡んだアボカドを、二つの小鉢に平等に取り分ける。仕上げに、刻み海苔をパラリと散らした。
 あっという間に、一品目が完成した。

「よし、そしたら味噌汁を作るぞ」

 例の戸棚を開けると、魚住さんの瞳が少年のようにキラキラと輝き出した。
 じっくり品定めするように、数々の瓶を嘗め回すように見ていく。

「……今日は気分的に、北海道味噌がいいな」

 魚住さんが取り出した北海道味噌は、昨日のまろやかな関西白味噌とはまったく違い、赤みを帯びた色をしていた。
 あまり甘さはなさそうな……キリッとした渋みとコクを予感させる色合いだ。

「辛口の米味噌だな。味はすっきりとしているから、飲みやすいと思うぞ」

 トントンと軽快な包丁の音とともに、まな板の上でキャベツと玉ねぎが素早く切られていく。キャベツは味噌汁用のざく切りと、生姜焼きの付け合わせ用のみずみずしい千切りの二種類に手際よく切り分けられた。
 玉ねぎも味噌汁用だけでなく、メインの生姜焼きと一緒に炒める分を含めて、豪快にくし切りにされていく。

「すまん。キャベツと玉ねぎは今日で全部使い切らせてもらう」
「あ、全然大丈夫です。どっちも大好きなので」

 沸騰した鍋の中に、キャベツと玉ねぎを流し込んだ。粉末出汁を入れてしばらく煮込むと、待ってましたと言わんばかりの顔で味噌を溶いていく。

(本当に、味噌汁を作ってるときの魚住さん、幸せそうだな……)

「よし、味噌汁も完成……いよいよメインか」

 厨房で働いていてもおかしくないくらいの手際のよさに……改めて絶句してしまう。
 もう二品が完成したなんて……その無駄のない動きに、眩暈がしそうになった。
 フライパンの上の激しい旨味の音とともに、立ち上る甘辛いタレと生姜の香ばしい湯気が、一気にキッチン全体を満たした。

(この生姜の香りも最高……ダメだ、お腹と背中がくっつきそう……)

「よし、そろそろ完成する。座っておけ」
「は、はい……!」
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