彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
「はっきり言わせてもらう。この部署のボトルネックはお前だ」

 ……ピシッと、会議室の空気が凍りついた。
 あまりの暴言に呆気に取られる私へ、魚住さんは一切の容赦もなく同じ言葉を重ねた。

「この部署のボトルネックは、お前だ」

 聞き間違いではなかった。魚住さんは初対面の私に向かって、まっすぐな瞳でとんでもない暴言を叩きつけてきたのだ。
 唐突に全否定され、頭の中が真っ白になる。
 私がどんな反応を示すか試すように、魚住さんは黙ったまま、じっと私の目を射抜くように見つめていた。

「……それって、どういう意味ですか」

 震える声で絞り出すように言葉にすると、魚住さんはパタンと静かにノートパソコンを閉じた。
 そして深くため息を吐き出すと、「自分で考えろ」と冷たく言い捨てて席を立つ。

(私の苦労も知らないで……ムカつく!)

 魚住さんはふんと小さく鼻で笑うと、一瞥もくれずに会議室から出ていった。
 一人取り残された狭い部屋で、込み上げてくる悔しさと怒りを必死に押し殺す。

「何であんなこと言われなきゃいけないのよ……」

 今回の上司も、大ハズレだ。
 仕事ができそうな雰囲気を醸し出しているだけで、威張るだけ威張って結局は部下にぶん投げる薄情な人間。
 午前中に浮かんだ転職の二文字が、再び脳内に浮かび上がる。

(……私も、退職代行使って辞めてやろうかな)

 いや、ダメだ。そんな無責任なことだけはしたくない。辞めるにしても、きちんとした段階を踏んで辞めないと。
 そんな考えが浮かぶくらい、私の精神はすでに限界を迎えていた。

「……あ、佐羽さん! よかった……さっき頼んだ案件なんですけど、追加発注がきちゃって……これもお願いできますか?」

(うわ……最悪。やらきゃいけないこと、まだまだたくさんあるのに)

「……わかった。その分も転送して」
「ありがとうございます! 明日の朝一までみたいです!」

 ヘラヘラと笑うぶりっ子後輩には、もはや怒りすら湧かず、ただただ無の感情しか残っていなかった。
 無言で頷き、自分のデスクに戻って腰を下ろす。そこからはロボットのように黙々と、今日終わらせるべきタスクを片づけていった。
 ただ、後輩から回された追加案件は、到底定時内で終わるような量ではない。

(今日は終電確定かな……)

 ……心の中に、冷たくて真っ黒な雨がザーザーと降り続いていた。
 泣きそうになるのを我慢しながら、何も口にせずパソコンと向かい合う。
 一人、また一人と周りからいなくなって、気がつくと広いフロアに……私一人だけが取り残されていた。

(やば……もうこんな時間か……)

 終電にさえも乗れないかもと、少しだけ焦ってくる。そこまで致命的な焦りを感じていないのは、自宅が会社からたった二駅ほどの場所にあるからだ。
 最悪、歩いて帰っても三十分程度。この際、中途半端に残さず最後までやり切ってから歩いて帰ろう……そう覚悟を決めた、そのときだった。

「……まだやってたのか」

 集中してキーボードを叩いていたため、背後の気配にまったく気づかなかった。
 慌てて振り向くと……そこに立っていたのは、つい数時間前に私の天敵と化したはずの魚住さんだった。腕を組み、冷ややかな眼差しで私を見下ろしている。

「あ、はい……これだけ終わらせたくて」
「……とてもすぐ終わる量とは思えないけど」
「ほっといてください。朝一までに終わらせないといけないんです」

 我ながら、上司をあしらうような生意気な口調になってしまったと、言った直後に気づく。
 ……まあいい。撤回なんてしない。だって、魚住さんは私の天敵になったのだから。

「半分貸せ。手伝ってやる」
「……え?」
「この売上データをグラフ化すればいいんだな? データ集計と分析は俺がやる。お前は文章の作成をやれ」

 私が抱えていた紙の資料をすっと奪い取ると、魚住さんは背を向けて自分のデスクへと戻っていった。
 一番手間のかかるデータ整理を引き受けてくれるのは、正直喉から手が出るほど助かる。

(でも、魚住さんの手を借りるなんて……かなり癪だな)

 とはいえ、今の私は背に腹は代えられない状態だ。猫の手どころか、悪魔の手でも借りたい。

(ここは素直に甘えるとしよう……)

 元々優秀な営業だったというなら、数字系の資料作りには慣れているはずだ。
 私は魚住さんの手腕を信じ、手元の自分の担当分を猛スピードで終わらせていく。

(……よし! やっと終わった!)

 達成感と解放感から、天井にまで届きそうな勢いで盛大に伸びをした。
 背中を反らせ、深々とため息混じりの息を吐き出す。すると……再び背後に立っていた魚住さんと、至近距離で目が合った。

「え! ずっといたんですか!?」

 慌てて体勢を戻し、情けない声を上げて振り返る。
 魚住さんは一ミリも眉を動かさず、「やっと終わったか」と呆れたように鼻で笑った。

「かれこれ、三十分はこのままだ。それはそうと、早く帰るぞ」
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