彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
――結局、会社を出たのは深夜零時を過ぎた頃だった。
当然のように終電はなくなり、歩いて帰る羽目に陥っていた。
(あれ、魚住さんは……大丈夫なのかな)
「あの……魚住さん、終電……もうないですよね?」
魚住さんは特に焦る様子もなく、腕時計をチラリと確認してから「そのようだな」とだけ静かに呟いた。
あまりに動じないその姿に、私は思わず首を傾げる。
「俺の家は歩いて帰れる距離だから心配するな。それよりお前は?」
「私も、歩いて三十分くらいです」
「……そうか。方向は?」
「えっと、あっちです」
魚住さんは私が指さした方向に体を向けると、「俺もそっちだ」と答えて迷いなく歩き出した。
自然と、深夜に上司と二人で一緒に帰る流れになってしまい、私はますます気を引き締める。
(一体、どこまで一緒に歩かなきゃいけないの……)
ぽつりぽつりと街灯が照らす大通りを、二人の足音だけを響かせて歩く。少し肌を刺す冷たい秋風が吹き抜け、私のミディアムヘアを揺らした。
隣を歩く魚住さんは特に口を開くこともなく、ただ前だけを見つめて、黙々と歩を進めていた。
(何だか、気まずいな……)
何か会話でもしていないと、沈黙の重さにこちらの心臓が耐えられそうにない。
タイミングよく赤信号になり、私は咄嗟に口を開いていた。
「あ、あの……さっき言っていた、私が部署のボトルネックになっているっていう話……それって、どういうことなのでしょうか?」
他に会話の引き出しが思いつかず、ずっと頭の片隅でモヤモヤしていた疑問をつい口にしてしまった。
あのとき、自分で考えろと突き放されたのに……悔しいけれど、本能的に答えを求めてしまう。
「……ったく、しょうがないな」
魚住さんは鼻頭を指で軽く掻きながら、呆れたように苦笑した。そして横に立つ私を、見下すように目を細めながらゆっくりと語り始める。
「お前は、何でも一人で抱え込んで解決しようとしすぎなんだ。後輩を正しく教え育てることも放棄して、先輩に波風を立てるのも恐れている。ただ自分を犠牲にして、周りに都合よく合わせているだけだろ」
(うう……ぐうの音も出ない)
「確かにそのほうが楽だし、簡単だ。自分が全部我慢して頑張りさえすればいいんだからな。だがそれじゃあ、部署全体の底上げには繋がらない」
信号が青に変わり、魚住さんは颯爽と歩き出す。刺さる正論に打ちのめされた私の歩幅は、当然のように狭くなり、どんどん遅れていった。
私はその大きな背中に向かって、「だからって……どうして私の存在がネックなんですか?」と必死に問いかける。
(何で私一人が、部署全体の底上げまで考えなきゃいけないのよ。そんなの、上の立場の人たちの仕事でしょ……)
怒りと悔しさをぶつけるような私の叫びに、前を歩いていた魚住さんの足がピタッと止まった。
「お前が、この部署で一番仕事ができるんだろ? だったら、お前がやらなきゃ誰がやる。能力があるのに逃げてやろうとしない、その姿勢が一番のボトルネックだって言ってるんだ」
容赦ない追撃に、私の思考は完全にストップした。
まさかここまで完膚なきまでに否定されるなんて思ってもみなくて、油断したら目頭が熱く込み上げてきそうになる。
そんな私の様子を察したのか、魚住さんはふっと小さく息を吐くと、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「……頑張ってるのは、認めてるんだからな?」
(え……今、褒められた?)
まさかの優しい言葉に、弾かれたように顔を上げる。
すると、街灯の光に照らされた魚住さんの整いすぎた顔が、すぐ目と鼻の先にあることに気づいた。息が止まりそうなほどの至近距離だ。
一瞬にして、自分の顔が熱くなるのがわかった。
(こんなの……直視できない)
思わず明後日の方向へ顔を背けると、魚住さんはそんな私の動揺に気づく様子もなく、再び前を向いて歩き出した。
「ほら、いいから早く帰るぞ。お前の家は、まだ着かないのか?」
「……え、ああ、あと五分くらいです」
(今の言葉、何だったんだ。本当に、冷徹な魚住さんの口から出た言葉なのか……)
それから家に着くまで、私は一度も口を開かずに黙々と歩いた。
また下手に話を振ると、もう一度心を抉られる可能性がある。せっかく褒め言葉をもらったのだから、この良い印象のまま一日を終えたい。
そう思っていた……はずだったのに……。
「あ、私のマンション、この辺なので」
「ん? 俺もこの辺だが」
(え、まだ一緒なの?)
「そ、そうですか……」
「ちょ、ちょっと待て。どこまで一緒なんだ?」
「それはこっちのセリフですよ。え、魚住さんのマンション、どこですか?」
問い詰めようと立ち止まった瞬間、二人の足がまったく同じタイミングでピタリと止まった。
当然のように終電はなくなり、歩いて帰る羽目に陥っていた。
(あれ、魚住さんは……大丈夫なのかな)
「あの……魚住さん、終電……もうないですよね?」
魚住さんは特に焦る様子もなく、腕時計をチラリと確認してから「そのようだな」とだけ静かに呟いた。
あまりに動じないその姿に、私は思わず首を傾げる。
「俺の家は歩いて帰れる距離だから心配するな。それよりお前は?」
「私も、歩いて三十分くらいです」
「……そうか。方向は?」
「えっと、あっちです」
魚住さんは私が指さした方向に体を向けると、「俺もそっちだ」と答えて迷いなく歩き出した。
自然と、深夜に上司と二人で一緒に帰る流れになってしまい、私はますます気を引き締める。
(一体、どこまで一緒に歩かなきゃいけないの……)
ぽつりぽつりと街灯が照らす大通りを、二人の足音だけを響かせて歩く。少し肌を刺す冷たい秋風が吹き抜け、私のミディアムヘアを揺らした。
隣を歩く魚住さんは特に口を開くこともなく、ただ前だけを見つめて、黙々と歩を進めていた。
(何だか、気まずいな……)
何か会話でもしていないと、沈黙の重さにこちらの心臓が耐えられそうにない。
タイミングよく赤信号になり、私は咄嗟に口を開いていた。
「あ、あの……さっき言っていた、私が部署のボトルネックになっているっていう話……それって、どういうことなのでしょうか?」
他に会話の引き出しが思いつかず、ずっと頭の片隅でモヤモヤしていた疑問をつい口にしてしまった。
あのとき、自分で考えろと突き放されたのに……悔しいけれど、本能的に答えを求めてしまう。
「……ったく、しょうがないな」
魚住さんは鼻頭を指で軽く掻きながら、呆れたように苦笑した。そして横に立つ私を、見下すように目を細めながらゆっくりと語り始める。
「お前は、何でも一人で抱え込んで解決しようとしすぎなんだ。後輩を正しく教え育てることも放棄して、先輩に波風を立てるのも恐れている。ただ自分を犠牲にして、周りに都合よく合わせているだけだろ」
(うう……ぐうの音も出ない)
「確かにそのほうが楽だし、簡単だ。自分が全部我慢して頑張りさえすればいいんだからな。だがそれじゃあ、部署全体の底上げには繋がらない」
信号が青に変わり、魚住さんは颯爽と歩き出す。刺さる正論に打ちのめされた私の歩幅は、当然のように狭くなり、どんどん遅れていった。
私はその大きな背中に向かって、「だからって……どうして私の存在がネックなんですか?」と必死に問いかける。
(何で私一人が、部署全体の底上げまで考えなきゃいけないのよ。そんなの、上の立場の人たちの仕事でしょ……)
怒りと悔しさをぶつけるような私の叫びに、前を歩いていた魚住さんの足がピタッと止まった。
「お前が、この部署で一番仕事ができるんだろ? だったら、お前がやらなきゃ誰がやる。能力があるのに逃げてやろうとしない、その姿勢が一番のボトルネックだって言ってるんだ」
容赦ない追撃に、私の思考は完全にストップした。
まさかここまで完膚なきまでに否定されるなんて思ってもみなくて、油断したら目頭が熱く込み上げてきそうになる。
そんな私の様子を察したのか、魚住さんはふっと小さく息を吐くと、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「……頑張ってるのは、認めてるんだからな?」
(え……今、褒められた?)
まさかの優しい言葉に、弾かれたように顔を上げる。
すると、街灯の光に照らされた魚住さんの整いすぎた顔が、すぐ目と鼻の先にあることに気づいた。息が止まりそうなほどの至近距離だ。
一瞬にして、自分の顔が熱くなるのがわかった。
(こんなの……直視できない)
思わず明後日の方向へ顔を背けると、魚住さんはそんな私の動揺に気づく様子もなく、再び前を向いて歩き出した。
「ほら、いいから早く帰るぞ。お前の家は、まだ着かないのか?」
「……え、ああ、あと五分くらいです」
(今の言葉、何だったんだ。本当に、冷徹な魚住さんの口から出た言葉なのか……)
それから家に着くまで、私は一度も口を開かずに黙々と歩いた。
また下手に話を振ると、もう一度心を抉られる可能性がある。せっかく褒め言葉をもらったのだから、この良い印象のまま一日を終えたい。
そう思っていた……はずだったのに……。
「あ、私のマンション、この辺なので」
「ん? 俺もこの辺だが」
(え、まだ一緒なの?)
「そ、そうですか……」
「ちょ、ちょっと待て。どこまで一緒なんだ?」
「それはこっちのセリフですよ。え、魚住さんのマンション、どこですか?」
問い詰めようと立ち止まった瞬間、二人の足がまったく同じタイミングでピタリと止まった。