彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
「……ここ、だが」
「私も……ここです」

 最寄駅からは徒歩五分。住宅街の一角にひっそりと佇む、綺麗なマンションの前で二人の足が止まる。

(え……まさか同じマンション?)

「お前、何階だ?」
「八階です」
「……それも同じだ」

 まるで怪談でも聞いているかのような重苦しい声に、腕にゾワッと鳥肌が立つ。こんな漫画みたいな偶然があるなんて、想像すらしていなかった。
 今日やってきたばかりの天敵の上司が、同じマンションの、同じフロアだなんて……。
 魚住さんは片方の眉を不機嫌そうに吊り上げると、おそるおそる核心に触れてきた。

「ちなみ、何号室だ?」
「……八〇一です」

 それを聞いた瞬間、魚住さんは大きな右手でバシッと額を押さえた。あちゃーという心の絶叫がそのまま聞こえてきそうなくらい、顔を引きつらせている。

「……俺は八〇二だ。お前、隣だったのか」
「え、ええ!?」

 ……こんな偶然、起こり得るものなのか。
 鏡を見なくても、自分の顔から一気に血の気が引いていくのがわかった。
 確かにここ最近、お隣の部屋はずっと空室だったけれど……まさか魚住さんが引っ越してきていたなんて。

「俺は数日前に来たばかりだ。挨拶しようと思って何度かチャイムを鳴らしたんだが……一向に出ないから」

(……そりゃあ平日は深夜まで仕事でいないし、休日は泥のように死んで寝てるか、イヤホンで音楽聴きながら部屋で持ち帰り仕事してるかだもん……聞こえるわけないよ……)

「すいません。家にいる時間が極端に少ないもので……」

 エントランスの前で、私たちは目を見開いたまま固まっていた。
 深夜なので声のトーンを落としてはいるものの、この複雑で怒涛の展開に感情の整理が追いつかない。

(こんなの……プライベートの時間まで心が休まらないよ……)

 思わず項垂れたくなる気持ちをどうにか押し殺し、魚住さんの背後に続いてエレベーターへ乗り込む。
 あからさまに動揺している私とは対照的に、魚住さんは早々にこの現実を受け止めたのか、堂々とした佇まいで壁に背を預けていた。

(しまった……お腹が鳴りそう……)

 緊張がふっと解けた途端、唐突に激しい空腹感が押し寄せてきた。今日は朝と昼にエネルギー補給用のゼリー飲料を口にしただけだった。
 このエレベーターという密室で、私は我慢できずに盛大なグーッという腹鳴を轟かす。

「あ……すいません」

 恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになる私に対し、魚住さんは吹き出すことも呆れることもなく、ただ前を見つめたまま一度だけ首を縦に振った。

(よかった……気にならなかったみたいだ)

 八階に到着すると、私は気まずさを隠すように、逃げるようにして自分の部屋の前まで歩いていった。
 そのすぐ後ろを、隣の部屋である魚住さんの足音が静かに追ってくる。

「あの……今日は遅くまで手伝っていただき、本当にありがとうございました。それじゃあ、また明日……」

 深々と頭を下げ、部屋の鍵を開けようとした瞬間……隣のドアの前で立ち止まった魚住さんが、淀みのない声を投げてきた。

「お前……腹、減ってるんだろ」
「……え?」

(あ……やっぱり、さっきのお腹の音で、気にさせてしまったんだ……)

「そ、そうですね。今日は朝からあまりまともに食べていなくて……」
「ちゃんとした飯を食わないと、いい仕事なんてできるわけがない」
「……はい、気をつけます」
「どうせ明日になればまた忘れて、適当に済ませるつもりだろ?」

 図星を突かれてしどろもどろになる私を見て、魚住さんは呆れたように短く息を吐いた。そして、自分の部屋の鍵を開けようとしていた足を止め、ゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくる。

(え……何? ここでも説教?)

 思わず身構えてしまった私に対し、魚住さんは断固とした口調で言い放つ。

「……俺の部屋に来い。飯を作ってやる。もう夜遅いから、手軽にできる簡単なものだがな」
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