彼はアメとムチがうますぎる ~つめたい上司のあたたかい味噌汁~
 ――今日初めて会ったばかりの人なのに……成り行きで、その上司の家の中に足を踏み入れていた。

 断れる雰囲気でもなければ、躊躇する猶予すら与えられなかった。それほどまでに、私の空腹が可哀想に思えたのだろう。
 これほど隙のない完璧主義の上司なら、きっと美味しい料理を作ってくれるはず……。
 私なんかよりもずーっと、規則正しい生活を送っているに違いない魚住さんのご飯なら、絶対に美味しいはず……そんな甘い期待が、一瞬にして私の頭の中を支配した。

「そこ、適当に座っててくれ」

 間取りは私の部屋とほぼ同じ1LDKだ。ただ、私の散らかり放題なリビングとは雲泥の差で、生活感が極力抑えられた清潔感あふれる空間が広がっていた。
 引っ越してきたばかりだからか、部屋の隅には未開封の段ボールがいくつか綺麗に積み上げられている。その整然とした配置だけでも、魚住さんの几帳面で丁寧な性格がはっきりと窺えた。

(適当に座ってろって言われても……さすがに上司を目の前にして、自分だけ寛いでなんていられないよ……)

 ダイニングテーブルへの着席を促されたものの、私は気まずい苦笑いを浮かべながら「手伝います」と小さく声を張った。
 魚住さんはスーツのジャケットを脱いで椅子に掛けると、ワイシャツの袖を捲り上げながら、不敵にニヤリと口角を上げた。

「そうか。なら、お前もキッチンに来い。手伝わせる作業は特にないが……まあ、俺の手元でも黙って見ておけ」

 広々としたカウンターキッチンに入った魚住さんは、ハンドソープで念入りに手を洗う。そして隣に立つ私に向かって「次は玉木な」と言い、シンクの前から一歩横へとずれた。
 言われるがまま、私も手を洗う。その間、魚住さんは冷蔵庫の中身を物色していた。

(あ……今、苗字で呼んでくれた……出会ってまだ半日なのに、すっかりお前呼びが定着してしまったな……)

 そんな私のくだらない心の声など知る由もなく、魚住さんは今日使う食材を並べていく。
 白菜、ぶなしめじ、鶏ささみに豆腐、そして卵……頭の中で完璧なレシピが完成しているのか、その手つきには一切の迷いがない。

「よし、それじゃあサクッと作っていくか」
「……お願いします」

 魚住さんは手始めに、冷凍庫からラップで綺麗に個別包装されたご飯を取り出した。
 一人前ずつ包まれた二つの塊を耐熱ボウルに移し、電子レンジに入れて加熱を始める。

(偉いな……ご飯もちゃんと自分で炊いて、小分け冷凍してるんだ……)

 レンジの音が鳴り響く中、まな板の上で白菜や鶏ささみがひと口大に切られていく。ぶなしめじも石づきを切り落とし、慣れた手つきでほぐしていった。

(すごい……こんなに手早くできるなんて……)

「今日は……何にしようか……」

 下ごしらえがあっという間に終わると、魚住さんはどこか楽し気に後ろを振り返り、キッチンの壁際にある大きな戸棚を開け放った。
 その中には、ガラス瓶に入ったたくさんの味噌が、まるでコレクションのようにずらりと並べられていた。

(え……これ、全部お味噌なの?)

 各瓶に貼られているラベルには、北海道やら仙台やら、下は九州まで各地域の名前が書かれている。
 魚住さんは「これにしよう」と満足そうに微笑みながら、『関西白味噌』と書かれた瓶を取り出した。

「魚住さん……味噌オタクなんですか?」

 失礼にならないよう声を低め、遠慮がちに尋ねてみる。
 魚住さんは鍋に水を入れながら、ふふっと吹き出すように笑った。

「味噌汁だけは、人一倍こだわりが強くてな。一度この奥深さにハマったら、抜け出せなくなった」

 湯気が立ち上り始めた鍋の中に粉末出汁をサラサラと振り入れ、白菜とぶなしめじを惜しみなく投入していく。
 味噌汁を作っている最中の魚住さんは、会社で見せていた冷徹で近寄りがたい表情とはまるで違う……少年のように、まっすぐで無邪気な真剣さを帯びた顔つきをしていた。
 じっくりと、味噌を溶かしていく……。

「よし、いい感じだ。あとはメインだな」

 すでに加熱が終わっていた温かいご飯を二つの丼に移すと、魚住さんはフライパンに火をつけた。
 丁寧かつ慎重に手を動かしていた味噌汁のときとは一変し、今度はスピード感あふれる素早い手つきに変わる。

「本当は並行して作りたいんだが、どうしても味噌汁はちゃんと向き合いたくてな」

 少しだけ茶目っ気を見せるようにニヤッと笑い、フライパンへ合わせ調味料を注ぎ入れた。ジュワッと甘辛い香りが立ち上る中へ、切り分けた鶏ささみを投入し、中火でじっくり煮立てていく。

(本当に、普段から自炊してるんだな、魚住さん……)

「鶏ささみに火が通ったら、豆腐を入れてひと煮立ち。仕上げに水溶き片栗粉を回し入れてとろみをつけたら……最後に溶き卵を流し込んで、完成だ」

 ――完成した瞬間、私は自然と拍手をしていた。
 まるで大作映画でも見たかのような、そんな感動が全身に走る。
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