忘れられないひと〜結婚の挨拶に行った先の継母は、私が昔追い出した父の恋人でした〜
4.プロポーズの後先
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「ごめんな、気使っただろ?」
歌舞伎門を抜けてすぐ、圭介は両手を擦り合わせて私を気遣った。
失態を演じた恋人にもいつもと変わらず優しい言葉をかけてくれる。
「なんで圭介が謝るの。謝るとしたら私の方」
圭父がバス停まで送ってくれるというのを固辞したせいで、圭介まで私に付き合って炎天下の昼下がりを歩く羽目になった。
「私、気に入られなかったと思うから」
滲んでくる汗をハンカチで押さえながら、予防線を張った。
「そんなことないよ」
高台にあった圭介の家からバス停までは緩やかな坂道だ。途中、近道の階段や日陰の脇道も使い住宅街を抜けて大通りへ出た。
「心配することないって」
私を不安にさせないためか、そういえば圭介の口元は、ずっと引き上げられたままだ。
すれ違う自転車や散歩中の犬から私を守るようにして歩きながらも、何度も笑顔を向けてくる。
「大丈夫、大丈夫。心菜は俺にはもったいない彼女なんだから」
普段はくすぐったい台詞の数々も、閉じた心では受け取れなかった。
「……」
アスファルトを睨みながら黙々と歩いた。
圭介が哀しげに言った。
「心菜、俺だけ見てて」
顔を上げると、圭介は切羽詰まったような顔をして私を見ていた。
懐かしく甘い記憶が、戻ってくる。
圭介は私が勤めるオフィスビルで清掃のアルバイトをしていた。
♰
――出会いの日、圭介は私の前でバケツを倒した。
通路は水浸しになって離れたところで作業をしていた先輩が血相を変えて飛んできて圭介を怒鳴りつけた。
圭介は大きな体躯をしゅんとさせ、私に向かって両手を上下させた。
「すいません。滑ったら危ないんでゆっくり、ゆっくり」
『広瀬』と印字されたネームプレートを揺らし、私の足元の心配をするジェスチャーが子供っぽくて、弟が小さかった頃を思い出した。
それから数ヶ月が過ぎたある日、勤務後のビルの外に清掃作業員の制服を脱いだ圭介がいた。
「どうしても今日中に伝えたくて」
控えめな二重瞼も厚めの唇も、やや角ばった輪郭も、この頃には見慣れたものになっていた。
「俺、実は今日でバイト終わりなんです。本当はずっとここに来たいんですけど、明日からは就職する会社の研修が入ってて」
空気は冷たいのに圭介は汗を拭っていた。
「今日までほんと、楽しかったです。会えることがすっげえ励みでした。えっと、それで」
圭介は言葉を止め、酸素を取り込むみたいに空を仰いで夜を吸った。私はただぽかんとして圭介がなにを言い出すのか、その口元を見ていた。私たちの関係は顔見知り程度だったから。
「また会ってもらえませんか、職場の外でも」
強張った表情で迫られた。
「だめ、ですか」
似たような商業ビルが並ぶオフィス街のこの時間帯はスーツを着たサラリーマンが多い。すれ違う人たちが興味本位に私たちを眺めて過ぎて行く。けれど圭介の目には私以外なにも映っていないようだった。
えーと、と返事に窮した。――恋をするなら大人びた、気難しいくらいの男、自信満々な男、やたらには笑わない、無口な男……、と挙げればきりがないくらい、私は性懲りもなく前の男に囚われていた頃だった。
「……」
ごめんなさい、と一言残してこの場を去ることは簡単だった。だけど返事を待つ間も、私を必死に見つめてくる眼差しに心が揺れた。ほだされた、という方が近いかもしれない。
「とりあえず、連絡先の交換でいい?」
私の曖昧なイエスの返事に、圭介は弾かれたように笑った。