忘れられないひと〜結婚の挨拶に行った先の継母は、私が昔追い出した父の恋人でした〜
「どういうこと?」
私の質問に、男は面倒そうに言った。
「その女ちょっと頭がおかしいんだ。気にすることないから」
「でもあなたの恋人だって言ってる」
「いや、そういう関係じゃない。たまに食事して、寝る、それだけの関係」
……それって、セフレ……、
呆然としていると回り込んできた女に肩を揺さぶられた。――これで分かったでしょう、別れるって言いなさいよ。あなたから言いなさいよ。早く言いなさいよ。別れるって!
私はぎょっとした。
狂気の形相、なのに目は怯えている。……彼は私のもの。私だけの。私のよ。
呪文のように繰り返す声は歪みながら鈍く深く、私を刺した。追い詰められた人間がこんなにも無様で憐れなことに悲鳴をあげそうだった。
直視できず視線を外した瞬間、頭の中で何かがカチッと重なる音が鳴った。まさか……。
信じたくないと動揺しながらも、ほんとうはどこかで疑っていたことが唇から漏れた。
「私はあなたにとって、なに?」
……この人と同じ?
続く言葉は心の声で問いかけた。
「とにかくこの件は後で。仕事中だから」
詫びもせず男は自分の日常へと戻っていった。目の前の、こんな風に狂ってしまわなければとても美しいはずの女性を、私にあずけたまま。
その日も次の日も、彼からの連絡はなかった。
――まるで覚悟を試されているような沈黙だった。“これまで通りの関係”でいいなら連絡してこい、とでも言うような。
悶々とする私に残酷なアドバイスをくれたのは、私の最初の恋人だった幼なじみだ。
「ココはいつか恋人になれるって思いたいのかもしんないけど、そいつに今、本命がいないと言い切れんの?」
家族以外で唯一私を『ココ』と呼び捨てで呼ぶ元カレの言葉には手加減というものがなかった。
「つうかさ、相手が忙しいって聞いて内心ほっとしてただろ。ココにとっても都合のいい相手だった。それがこの結果なんじゃ?」
「……」
元カレの言うとおりだった。
父子家庭で、家事をこなしながら八才下の弟の面倒をみていた私には男の多忙がちょうどよかった。
男は私の事情に寛大だった。
――思春期の弟を夜ひとりにしたらろくなことにならないからな。
そういって労ってくれた。
けれど皮肉にも、それが私の負い目になった。
元カレは唇を噛む私を見て、潮時だな、と言った。
揺るぎのない声。私は肩を震わせる。
「おじさんも心配してたぜ。ココはどんな男とつきあってるんだろうって」
父は子供の恋愛に口を挟まない。それはたぶん、私のせいだ。
「別れた方がいい」
「……わかってる」
簡単に決心したわけじゃない。でもいつもの仏頂面のせいでそう見えたのだろう。
私の決意に元カレは得意気に顎を上げた。
悪気はなかったのかもしれない。けれどこの一件で私は強烈な敗北感を抱えることになった。
考えてみれば、私と別れる前も後も変わらずに自由気ままな元カレに恋愛相談をした私が愚かだったのだ。そうか、私が悪いのか。だったらもう二度としない。ぜったい。
――あの日の誓いは続いている。
だから今日圭介の家に招かれたことも、もっといえば恋人がいることすら、幼なじみの元カレには打ち明けてはいない。
♰
「やっと来たよ」
玄関の引き戸がからからからと軽やかに開いて、圭介が苦笑交じりにほっとした声を上げた。
私は細い息を吐く。
――現実逃避もここまでだ。
「いやあどうもどうも、お待たせしてすみませんね」
広縁の先から声が向かってきた。