忘れられないひと〜結婚の挨拶に行った先の継母は、私が昔追い出した父の恋人でした〜
――「心菜おかえり」
「!」
帰宅すると家の前でスーツ姿の圭介が私を待っていた。
濃紺の空は私たちの表情を隠している。
私は後退りうつむき、軽蔑の言葉を浴びせられるのを、待った。
「びっくりさせて、ごめん」
「……」
「スマホが繋がらなくて」
「……」
「俺の方の事情はあとで……ほんと、遠くない先にちゃんと説明するから」
「……」
「心菜、怒ってる、よね? 月曜日の約束守れなかったこと。ほんとごめん。それで」
圭介は近づいてきて――と同時に、上着のポケットから紙を取り出した。婚姻届だった。
「今日これから出しに行かない?」
「……な」
私はとても間抜けな声を出したと思う。
――だって、……なんで?
恐る恐る圭介に視線を合わせた。
その表情は週末に別れたときのままだった。
――どういうこと? 圭介は今も私と結婚するつもり……?
私の機嫌を取ろうとしている圭介から視線を外した。
――そうじゃない、圭介はまだ、知らないんだ……
圭介の大好きな継母を、私が苛め抜いて傷つけたことを。
「……」
もう一度、圭介を見る。
優しい人。
こんな私に、降るように愛を与えてくれた人。
もしも私がしたことを知ったら、これまで私に掛けてくれた愛情や時間のすべては、後悔の記憶に変わってしまうのだろうか。私を愛した罪悪感が、あの仲の良い家族の関係を変えてしまうだろうか。
――そうか……
そういうことか……
何もかもが腑に落ちて、体から力が抜けていった。
若葉さんが圭介に事実を伝えないとしたら――
家族のためだ。
若葉さんは、私から身を引くことを望んでいるのだろう。
「ごめん」
私はきっぱりと言った。
「何言ってるかわかんない」
自転車の学生が通り過ぎるのをやり過ごしてから続けた。
「気が変わっちゃった。悪いけど結婚はナシで」
「ちょ、ちょっと待っ――」
「あと圭介とも別れるわ」
「心菜、冗談きついよ……」
淡々と別れの言葉を口にしながらも、私の心は性懲りもなく満たされている。――圭介が会いに来てくれた、私に愛を向けてくれている――、その現実が嬉しくてたまらない。――ずっとこのまま、この愛を感じていたい。別れたくない!
「別れるってなんでそうなるんだよ、俺は別れない」
「ばいばい」
できるだけ意地悪く言った。
「心菜っ!」
引き留めようとする圭介を振り切って、真っ暗な家の中に入った。そうして、圭介の気配が消えるまでじっとしていた。