忘れられないひと〜結婚の挨拶に行った先の継母は、私が昔追い出した父の恋人でした〜
家に帰ると珍しく弟がいた。
高校生の頃はアッシュ系に染めていた髪を今は黒に染め直して、彼女とお揃いだというペンダントをシャツの下からのぞかせて、スマホを触っていない方の手を軽く上げる。
「どうしたの、今日は日曜日なのに」
「オヤジからさっき呼び出しのメールが来た」
姉の問い掛けにも、弟はスマホから目を離さずに答える。
「そのお父さんはどこへ行ったの?」
帰りがけにスーパーで買ってきた食品を冷蔵庫に移しながら、父の気配を探した。
「さっきまでその辺にいたけど」
弟が答えたタイミングで父がリビングに戻ってきた。
「おう、揃ったな。今日はみんなで外食だぞ」
両手にはゴミ袋を抱えている。透明なビニールの中には古くなって着なくなったパジャマや服、それから若葉さんと揃えたカーテンや寝具類――。
「どうしたの、それ」
「明日は燃えるゴミの日だろ。いらないものはどんどん処分しとこうと思って」
父は事も無げに言った。
「さあ、終わった終わった。夕ご飯はどこがいい? リクエストあるか?」
「寿司かステーキかすき焼き」
弟は普段自分の財布では食べられないものをリクエストしている。
「ココは?」
「私はなんでも。ふたりで決めていいよ」
行先をふたりに任せてエプロンを腰に巻いた。キッチンへ歩きながら髪をひとつに結び、シンクにひたしてあるコップを洗う。父は蕎麦がいいらしく、寿司か蕎麦の二択で揉めている。
「それじゃジャンケンで決めるか」
「いいぜ。何回勝負?」
こういうとき弟は張り切る。いつもは、めんどくせぇ、が口癖なのにおかしな子だ。
そんなことを頭の隅で思いながら、弟が飲んだ炭酸飲料の缶を濯ぎ、出窓に設置したトレイに立て掛ける。
プランターの中で育っているハーブと野菜の成長を確認しつつ、台布巾をごしごし洗った。
小窓から外を見る。
隣の家の庭と、近隣の外壁と、その隙間からは奇跡のように陸橋の一部が臨める。――まるで妖精の通り道だね。
いつかの夕暮れ時に若葉さんが言ったそれを、私は今日まで何度も反芻してきた。静謐な空気が満ちる朝も、激しい雷が鳴る雨の日も、照りつける陽射しの強い日も、なんでもないありふれた日にさえも。ここから見た風景を若葉さんが思い出すことはあるのだろうかと、考えながら。
「アネキ、誰か来た」
弟の呼びかけに我に返った。インターホンが鳴っているのだ。
水に濡れた手をタオルで拭きながらモニターを覗いて、目を見開いた。玄関に立っているのは圭介だった。
「誰だ?」
固まった私の背後から父がモニターを覗き込んだ。
「圭介くんか。せっかくだから彼も誘おう」
父の提案を背中で聞きながら、玄関へと飛んでいく。
ドアを開けた。
「家で待ってなくて、ごめん」
胸がいっぱいになった。
空はまだ夜を迎える準備を始めたばかりで白っぽい色彩を広げている。
圭介に待ち伏せされた春の夕方と同じだ。
既視感に胸が締め付けられた。
今、圭介はあの日のように不思議な威圧感を放って前にいる。私の表情を必死に探っているのに態度は堂々として見えるあの姿で。――抑えていた愛しさが、込みあげてきた。
「……ちょっとかっこよすぎじゃない」
「え? 心菜、なんて?」
開け放ったままのドアから強い風が入ってきて、私たちの火照った頬を撫でた。
【第3章おわり】